第106話「欠けたまま、歩く」
色は、終わっていた。
それでも、ふいに残響が顔を出すことはある。朝、資料の文字が半秒だけ赤く熱を持って見えたり、誰かの笑顔に黄色い甘さが重なったり、名前を呼ぶ前に白い空白が薄く差し込んだりする。来る。来るが、以前のように飲み込まれはしない。白嶺はそれを、欠けの一部として受け取り、次のページをめくる。
会社のフロアは、今日も騒がしい。
美咲が「加藤さん、これ確認お願いします」と書類を持ってくる。心に寄り添う、と決めた女の声は、明るい。白嶺は『ありがとう』と返し、美咲の目が少しだけ安堵するのを見る。叶わない恋を、見てるだけでいいと自分に言い聞かせている女が、それでも毎日、ちゃんと側にいる。
悠人が、廊下で会釈をする。何も聞かない男だ。刀を持った夜を見たまま、倒れないでいてほしいとだけ願って、距離を保っている。白嶺は短く頷く。受け取れなかった想いが、それでも毒にならずに、そこに残っている。
玲奈が、誰かに小さな嫌味を言っている声が聞こえる。執着は消えた。苛立ちは残っている。うるさい。だが、そのうるさささえ、今は日常の一部だ。白嶺は苦にしない。感じ方の濃度は、まだ薄い。それでも、玲奈の声が「いる」という事実は、わかる。
別のフロアでは、月村無月が働いている。月が二つある名字を、書類に書いている。夜は家に帰り、彩華を見て、窓の鍵を確認する。契約は終わった。対等だ、と自分で言った。無月はそれを、真に受けて生き始めている。
退勤の時刻が来る。
白嶺は鞄を持ち、エレベーターに乗る。ふいに、胸の奥で青い静けさが、小さく顔を出す。届かなかった声の残り香だ。白嶺は目を閉じ、開く。残響は、引いていく。消えてはいない。だが、歩ける。
家のドアを開けると、彩華の声がした。
無月が先に帰っていて、娘を抱いている。白嶺は靴を脱ぎ、鞄を置き、彩華を受け取る。名前を呼ぶ。彩華。残っている。温かい。守る、という感触が、欠けた内側で、確かに灯る。感情の輪郭は薄い。なのに、この重さだけは、はっきりと残っている。
『……ただいま』
「おかえりなさい」
無月が、短く返す。刀は壁にある。輝いている。会社の名札は、月村になっている。美咲がいて、悠人がいて、玲奈がうるさくて、無月がいる。そして、家には最愛の娘が待っている。
白嶺は彩華の髪に顔を寄せた。
ふいに、桃色の糸が、胸の奥で小さく絡む。残響だ。来る。来るが、飲み込まれない。白嶺は娘を抱き直して、ソファに座った。
欠けたまま、母親のまま。
色を全部抱えたまま、それでも、歩いていく。
窓の外で、夜が静かにくれている。
白嶺は、その静かさを、否定しなかった。
——完——
『色を斬る母「白嶺」』を、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、「器であること」と「母親であること」が、一人の女の中でどう共存するかを軸に書きました。十二色の霊は、それぞれが人間の感情の極端な姿です。赤は純度への渇望、青は悲しみの引き受け、桃は独占と愛着、黒は存在そのものの消去——白嶺はそれを斬り、自分の内側に沈めていきます。斬るたびに欠けていく。それでも、娘の名前だけは手放さない。その矛盾を、最後まで持ち続けた人物として、彼女を描きました。
会社の同僚たち——美咲、悠人、玲奈、そして後から加わった無月——は、白嶺を「特別な器」としてではなく、一人の人間の側に立たせるために必要でした。心に寄り添う者、理解しきれないまま見守る者、うるさいまま日常にいる者、刀を置いても残る者。彼女たちがいることで、白嶺の欠けは「孤独な聖女の欠損」ではなく、「それでも人がそばにいる欠損」になったと思っています。
黒を倒し、すべてを抱えたあとの白嶺は、感情の濃度を失います。それでも喫煙所で美咲の声が胸に落ち、うっすらと目の端が熱くなる。完全には戻らない。戻らないまま、娘を抱き、出勤し、残響に晒されながら歩く。その「欠けたままの幸福」を、フィナーレに置きたくて、書きました。
物語の中で、白嶺は何度も「自分で抱える」と言います。救いや消去を拒み、重荷を手放さない。かっこいい決断であると同時に、危うい決断でもあると思います。読者の方が、彼女のその選択をどう受け止めたか。肯定でも、疑問でも、どちらでも構いません。受け取っていただけたなら、それで十分です。
最後に。
彩華一閃という技は、最初から名前だけがありました。いつ出すか、ずっと迷っていました。娘の名前が消えたあとに放たれる光として、ようやく居場所が定まったとき、この物語の核が一本につながった気がしています。
色を斬る母は、まだ歩いています。
欠けたまま、日常の中を。
読んでくださった方の、どこかの朝や夜に、この物語の残響がそっと重なりますように。




