第92話「休園届」
白嶺は、その日、会社を休んだ。
傷も残響も、黒花戦の疲労も、まだ完全には引いていない。だが、休む理由はそれだけではなかった。彩華を保育園に通わせ続ける必要が、今は薄くなっている。家の介入は終わった。無月が日中も家にいる。なら、外に預けるリスクを、しばらく抱える理由はない。完全に退園するのではなく、当面の休園にする。状況が落ち着いたら、また考えればいい。
朝、白嶺は無月に短く告げた。
『少し出る。彩華を見ていて。長くはかからない』
「承知しました。行き先は」
『保育園。休園の手続き』
無月は一瞬だけ目を細め、頷いた。白嶺は普段の服のまま家を出る。残虹は置いていく。刀を持たない日中の白嶺は、ただの白い髪の女だ。駅までの道を歩きながら、胸の奥の残響を測る。白い空白は、まだある。黒の気配は、まだ遠い。それでも、来る前に、できることを片付けておく。
保育園の事務所で、白嶺は休園届を出した。理由を聞かれ、「家庭の事情で、当面は日中の世話ができる人ができた」とだけ答える。職員は期間を確認し、手続きを進めた。荷物はそのまま預けておき、必要なら後日取りに来ることにする。白嶺は園の門を出た。
(……これで、しばらくは減る)
日中のルートを、家に嗅がれる心配が減る。無月がいる今は、それでいい。白嶺は手元の書類を鞄に入れ、帰宅の道を歩き始めた。途中、風が冷たく、白い気配の残りが指先を掠めた気がした。気のせいか。黒は、まだ来ない。
白嶺は足を速めた。
家に、彩華が待っている。無月も、待っている。
同じ頃、美咲は白嶺のマンションの前に立っていた。
会社を早退し、住所を頼りに来た。加藤さんが休みだと聞いて、様子を見に来ただけだ、と自分に言い聞かせている。おでこに残った感触と、「大好き」という言葉が、胸の奥で小さく熱を持っている。何も覚えていない夜の残り香が、今日は強く疼いた。
呼び鈴を押す。
ドアが開く。
出てきたのは、白嶺ではなかった。
若い女だった。黒い髪をまとめ、表情の少ない顔。目が、美咲を値踏みするように見る。美咲は一瞬、固まった。
「……加藤さんは、いらっしゃいますか」
「今は、留守です。どちら様ですか」
「佐藤です。会社の……同僚で。加藤さんの様子が気になって」
無月はドアを、完全には開けない。彩華の気配が、奥からする。美咲はそれに気づかない。無月は短い沈黙のあと、一歩下がった。
「……上がりますか。長くはできない」
美咲は靴を脱ぎ、上がり框で姿勢を正した。部屋は、以前訪れたときと大きくは変わっていない。だが、壁に刀が立てかけてある。輝いていない刀だ。美咲の視線が、そこに一瞬だけ止まる。
無月はリビングの入り口に立ち、美咲を見た。
「用を、どうぞ」
美咲は、自分でも意外なほど落ち着いた声で言った。全部を知っている、とは言わない。言えるはずがない。ただ、加藤さんが何かを一人で抱えていることだけは、感じていた。その感覚を、言葉にする。
「加藤さんが、何か大きな秘密を抱えていることくらい、わかります。生い立ちとか、家のこととか。……あなたが、その関係の人なんでしょう」
無月の目が、細くなった。空気が、変わった。美咲は心臓がうるさいのを自覚しながら、視線を外さなかった。知っている、とまでは言っていない。だが、「秘密があること」と「あなたがその関係者であること」は、断言した。本当は、刀の存在と、この女の佇まいから察しただけだ。それでも、今夜は、ここから言葉を引き出したかった。
無月は長く黙っていた。やがて、短く息を吐いた。
「……秘密、ですか」
「はい。加藤さんは、一人で抱えすぎている。それが、何なのかを、知りたいんです」
無月の指が、壁に触れる。迷っている。白嶺に言ってはいけないことを、どこまで話すか。美咲の目は、本気だった。恋をしている人間の、本気だ。無月にはそれがわかった。だからこそ、危険だった。
それでも、無月は口を開いた。白嶺が不在の今、この女を帰せば、また別の形で嗅ぎつけてくる。なら、最低限の真実を、こちらから出した方がいい。
「……坐ってください。長くは話しません」
美咲は、言われるままにソファの端に座った。
無月は、壁に寄りかかったまま、白嶺の生い立ちと、彼女が何を抱えて生きているのかの輪郭を、短く語り始めた。




