第90話「器ではない刃」
無月の眩虹が、白い霧を割った。
未完成の軌道でも、黒花戦で届いた感触は残っている。シロユルの核は、白い頁の中央だ。白嶺が膝をついたまま、掠れた声で何か言おうとする。無月は聞かない。聞いている暇がない。
「……器ではない子が、よくそこまで来る」
「離れろ。その方に、触れるな」
無月の声は、はっきりしていた。シロユルが白い手を伸ばす。触れたものを薄くする感触が、無月の腕を掠める。記憶の端が、少しだけ飛ぶ。それでも無月は止まらない。白嶺の太刀筋を、半拍遅れて再現する。光が溢れる。形は崩れたまま、密度も足りない。だが、核には届く。
【 花無垢 】
光が、白い頁を焼く。
シロユルの形が、外側から崩れていく。
「……器ではないのに。宿せば、どうなるかわかっているのですか」
無月は答えない。刃を押し込み、白い核を断つ。
シロユルの気配が、散った。
——その直後だった。
器ではない身体に、白い色が流れ込む。
赦し、浄化、消去。白嶺のような器量を持たない人間が色を取り込んだとき、何が起きるかは、家でも正確には語られていない。身体が拒絶するのか、自我が削れるのか、刀が死ぬのか。恐ろしい結末が待っていることだけは、確かだった。
無月の膝が、落ちる。眩虹の光が、急に濁る。刃の感触が、遠くなる。白嶺に憧れて振ってきた剣の軌道が、指から滑り落ちていく。意志は残っている。「この親子を守る」という決意も、残っている。なのに、守り方が、わからなくなっていく。
「……あ」
無月は自分の手を見た。眩虹は、もうほとんど輝いていない。沈んだ鉄の塊のように、重い。白嶺が、残虹を支えに立ち上がり、無月の肩を掴む。
『……無月。返事をしろ』
「……大丈夫、です。ただ、少し……刀が、遠い」
白嶺の顔が、強張る。器ではないものに色を宿させた結果が、すでに無月の身体で起き始めている。力は削れ、眩虹の輝きは失われ、白嶺の剣を追ってきた感触が、静かに消えていく。
白い残滓が、無月の内側で小さく渦を巻いている。
白嶺は無月を支え、残虹を拾い、夜の道を戻る準備をした。彩華が待っている。家に帰らなければ。
『……ごめん』
無月は首を振った。振れた。それだけは、まだ自分の意思だった。
「謝らないでください。私は、自分で踏み込みました」
二人は、白い夜の中を歩き始めた。
無月の刃は、もう以前のようには輝かない。それでも、白嶺の肩に寄りかかる力だけは、残っていた。




