第89話「白い敗北」
シロユルの霧は、斬っても斬っても、形を変えなかった。
白嶺は【 薄斬 】で軌道を削り、間合いを詰める。核は見えている。届くはずだった。だが、白い手が触れた瞬間、残響の奥にあった「母の言葉」が、ふと薄れた。最愛の娘のワガママを聞けて嬉しかった——その温度が、消える。空白が、胸に開く。
白嶺の踏み込みが、半拍遅れた。
「……ほら。楽でしょう。少しずつ、消えていきます」
シロユルの声は、優しかった。白嶺は残虹を振り上げるが、次の白い手が肩に触れる。彩華の顔が、一瞬だけ遠くなる。名前は残っている。だが、抱き上げたときの感触が、薄れる。全力が、出せない。消されてはいけないものを、消されかけている。
『——っ』
膝が、落ちる。残虹の切っ先が、地面に向く。白い霧が、白嶺の周囲を包み始める。取り込まれる。器ではない。消去される側に回っている。意識が、白紙の方へ引かれていく。
そのとき、別の刃音がした。
眩虹の光が、霧を割って入ってくる。無月だ。家を空けた理由は聞かない。白嶺の気配が途切れたことを、察知したのだろう。無月は白い女に刃を向け、白嶺の前に立つ。顔は青い。それでも、声は震えていなかった。
「……離れてください」
「器ではない子が、来るのですね。あなたも、消してあげましょうか」
『……無月。下がって』
白嶺の声は、掠れている。無月は下がらない。眩虹を構えたまま、シロユルの核を測る。白嶺がクチツチの中で見せた太刀筋。黒花戦で半拍遅れて乗った軌道。未完成でも、届いた光。それを、今、ここに。
無月は踏み込んだ。
白い霧が、未完成の虹を飲み込みにかかる。それでも無月は止まらない。白嶺を取り戻す。それ以外の選択肢を、持っていなかった。
「白嶺様を、返してください」
光が走る。
白い女の微笑が、初めて揺れた。




