第9話「普通の土曜日」
土曜日の朝は、平日より少しだけ遅かった。
白嶺は七時過ぎに目を覚まし、まだ眠っている彩華の顔を見てから、台所に立った。
今日は仕事がない。保育園も休みだ。一日中、娘と二人で過ごす日になる。
離乳食のメニューを考えながら、冷蔵庫を開ける。人参、大根、鶏ひき肉。ありあわせのもので、何とかなる。
湯を沸かし、野菜を小さく切る。手元の動きは、もうほとんど無意識だった。
彩華が泣き出したのは、白嶺が人参を茹でている最中だった。
白嶺は火を止め、手を拭いてベビーベッドへ向かう。
『おはよう。今日は一日、一緒よ』
彩華はまだ言葉を理解しない。それでも、白嶺の顔を見ると泣き止んで、小さな手を伸ばしてきた。
白嶺はその手を、自分の指で受け止めた。
午前中は、近所の公園に出た。
天候は穏やかで、風が少し冷たい。白嶺は彩華をベビーカーに乗せ、ゆっくりと遊具の周りを歩く。
他の母親たちもいた。同年代の女性が、子供の手を引いてベンチに座っている。白嶺は軽く会釈を返したが、会話にはならなかった。
(……普通、なんだろうな)
そう思いながら、白嶺はベビーカーのフードを直した。
彩華は空を見ていた。目が、白嶺に似ているかどうかは、自分ではわからなかった。
ふと、電話が振動した。
画面に表示された番号を見て、白嶺の指が一瞬止まる。登録されていない番号だ。市外局番は、覚えのあるものだった。
虹結家の人間が使う、いくつかの番号のうちの一つ。
白嶺は着信を拒否し、電話を鞄の奥にしまった。
振動は、すぐに止まった。
(……まだ、来ないで)
心の中で短く呟き、白嶺はベビーカーを押し進めた。
彩華は何も知らない顔で、風に手を伸ばしている。
帰宅後、昼食を済ませ、彩華が昼寝に入る。
白嶺はソファに座って、溜まっていた洗濯物を畳んだ。白い小さな服。自分のブラウス。黒い靴下。
残虹は、部屋の隅で布に包まれたまま動かない。今日は、触らない。
午後、美咲からメッセージが届いた。
「加藤さん、お疲れ様です! 明日の会議の資料、少し早めに共有しても大丈夫でしょうか?」
仕事の話だ。土曜日だというのに。
白嶺は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
『大丈夫。後で送るわ』
「すみません! 助かります!」
すぐに既読がついた。美咲は、いつも返信が早い。
白嶺はスマートフォンを伏せて、彩華の寝顔を見た。
この子は、会社のことも、刀のことも、色のことも、家のことも知らない。
知らないまま、大きくなってほしいと思う。
それが、今の白嶺にとっての「普通」だった。
夕方、彩華が起きて、二人で簡単な夕食を取った。
入浴させ、髪を乾かし、寝かしつける。一連の動作が終わる頃には、外は完全に暗くなっていた。
白嶺は一人でテーブルに向かい、温めたお茶をすする。
テレビはつけない。音楽もかけない。ただ、静かな部屋の中で、今日一日に起きたことを、特に何も振り返らなかった。
電話の着信履歴を、もう一度だけ見た。
拒否した番号が、そこに残っている。
白嶺は履歴を削除し、画面を暗くした。
『……おやすみ』
彩華の部屋のドアに手をかけ、小さく呟く。
返事はない。それでよかった。
白嶺は自分の部屋に戻り、電気を消した。
今夜は、月を見なかった。




