第8話「薄い赤」
赤の熱は、三日目でかなり薄れていた。
朝、彩華を抱き上げたときに、腕に余計な力が入ることはもうない。離乳食のスプーンも、普通の重さで持てる。
それでも、完全に消えたわけではなかった。信号の赤や、誰かの怒った声を聞くと、胸の奥が小さく反応する。残香だ。白嶺はそれを、天気の悪い日の古傷のようなものだと思っていた。
会社では、玲奈が露骨に距離を取っていた。
先日の給湯室での一件以来、彼女は白嶺に直接言葉をかけてこない。視線だけが、時折刺さる。白嶺はそれを、都合の良い沈黙として受け取ることにした。
美咲は逆に、心配を増していた。
「加藤さん、最近少し無理してませんか? 顔色、まだ完全に戻ってない気がして」
『気にしすぎよ、佐藤さん』
「でも……」
『大丈夫。本当に』
美咲は不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は追わなかった。白嶺は書類に目を戻す。美咲の気配が、しばらく近くに残っていた。
退勤後、白嶺は寄り道をした。
スーパーで夕食の材料を買い、保育園に彩華を迎えに行く途中、駅前の広場を通る。
人が多かった。会社帰りのスーツ、買い物袋を下げた老人、ランニングウェアの若者。
その中に、一人、立ち止まっている男がいた。
四十代くらいだろう。スーツのネクタイを緩めて、空を見上げている。表情は平坦で、喜んでも怒ってもいない。ただ、どこか虚ろだった。
白嶺は足を止めなかった。ただ、男の影が、夕光の中で少し長く見えた気がした。
(……気のせいか)
彩華が保育園の入り口で手を振っているのが見えた。白嶺はそちらへ歩を速める。
男のことは、すぐに意識から外した。
今夜は、刀を持たない。残香が残っているうちは、余計なものを斬らない方がいい。
そう決めて、白嶺は娘の元へ向かった。
夜。
彩華を寝かしつけ、白嶺は一人でソファに座った。
テーブルの上に、残虹が布に包まれて置いてある。物干し竿に戻す前の、中途半端な状態だ。
『……次は、もう少し間を空ける』
呟いても、返事はない。
窓の外に、薄い月が出ていた。赤くはない。普通の月だ。
白嶺は目を閉じた。
胸の奥の熱は、今夜はかなり静かだった。
それでも、完全に冷えたわけではないことだけは、わかっていた。




