第86話「制御できない」
白嶺が出社したのは、黒花戦から二日後だった。
傷は浅いが、残響と斬り合いの疲労は残っている。立ちくらみは減った。だが、感情の輪郭が、まだ安定しない。赤の熱がふと顔を出し、青の静けさが急に沈み、桃色の糸が絡みつく。全色の残滓が、制御しきれないまま身体の芯にいる。
朝、美咲がすぐに気づいた。
「加藤さん、おはようございます。……無理してませんか? 顔色が」
『大丈夫よ』
「本当に? 前より、目が泳いでる気がして」
白嶺は短く「気のせい」と返して席に着いた。美咲の心配は本物だ。だが、応じる温度がうまく作れない。優しくしようとすると、急に冷たくなる。放っておこうとすると、余計な言葉が出る。感情のハンドルが、効かない。
午前中、資料の数字が一度だけ二重に見えた。白嶺は目を閉じ、指で眉間を押さえる。その様子を、玲奈が遠目に見ていた。
「……また、休み明けで調子悪そうね。いいご身分だわ」
声は小さく、しかし確実に届く。以前のような執着の熱はない。だが、苛立ちは残っている。白嶺が普通でないことが、玲奈の気に障るらしい。白嶺は何も返さなかった。返すと、赤の熱が先に出そうだったから。
昼休み、美咲が給湯室で再び声をかけてきた。
「加藤さん、お昼、少し一緒にどうですか。無理にとは言わないんですけど」
『今日は一人がいい』
言葉が、意図より冷たく出た。美咲の顔が、一瞬だけ曇る。白嶺は自分が今、どの色の残滓で話しているのかを測れない。美咲は「はい……」と小さく頷いて、先に給湯室を出た。後ろ姿が、寂しい。白嶺は缶を握ったまま、自分の指先を見た。
(……制御が、効かない)
悠人が廊下ですれ違った。目が合う。悠人は何も言わず、軽く会釈だけして通り過ぎる。告白のあと、距離の置き方が変わっている。白嶺はそれに応じる余裕も、今はなかった。
午後の会議中、白嶺は一度だけ発言のトーンを間違えた。いつもより強く、いつもより短い。上司が少し目を細める。美咲が心配そうに見ている。玲奈が、鼻を鳴らす。白嶺は資料に目を落とし、呼吸を整えた。
退勤時間まで、なんとか持った。
鞄を持ち、エレベーターに乗る。無月が家で待っている。彩華が待っている。家に帰れば、刀を置ける。感情の制御も、少しは戻るかもしれない。
外に出ると、風が冷たかった。
白嶺は駅へ向かって歩きながら、胸の奥でまだ渦を巻く残響を、静かに測っていた。
完治は、まだ先だった。




