第85話「折れた夜のあと」
黒花が去ったあとの夜は、異常に静かだった。
白嶺は残虹を支えに、なんとか家の中へ戻った。無月が肩を貸し、玄関で靴を脱がせ、ソファまで運ぶ。座った瞬間、残響と斬り合いの疲労が一度に来る。肩の傷から血が滲んでいる。無月は黙って手当を始めた。
「……滅虹が、折れました」
『ええ』
「家の頂点が、自ら退いた。本当に、諦めたのでしょうか」
『少なくとも、今夜の母上は本気だった。刀が折れて、あの言葉を残した。嘘ではなかったと思う』
無月は消毒の手を止めなかった。白嶺の傷に触れる指が、わずかに動揺している。黒花の最後の言葉が、無月の胸にも残っている。分家のものにも、ああした未来を光らせる太刀筋を持つものがいるとはね。存分に、輝きなさい。——あの人が、自分に向けて言った。
「……私は、まだ未完成です」
『未完成で届いた。それでいい』
白嶺は短く言って、天井を見た。母の背中が、まぶたの裏に残っている。殺せと命じ、回収しろと命じ、それでも最後に「娘のワガママを聞けて嬉しかった」と言った人。器の立場に縛られ、能力を娘に渡し、剣だけで家を支えてきた人。純粋な敵では、終わらなかった。
彩華が、部屋の奥で小さく動く気配がした。無月がすぐに立ち上がり、様子を見に行く。白嶺は一人になり、自分の手を握った。残虹は、まだ応える。身体の方が、遅れている。
無月が戻ってくる。
「彩華様は、無事です。眠られたままです」
『よかった』
「白嶺様も、今夜は休んでください。家の気配は、遠ざかっています」
『……頼む』
白嶺は目を閉じた。無月は眩虹を近くに置き、いつものように見渡せる位置に座った。傷が疼く。黒花に弾かれた腕が、重い。それでも、退くつもりはなかった。
家は、親子を諦めた。
少なくとも、黒花はそう言った。次に来るものが色なのか、別の何かなのかは、まだわからない。それでも tonight は、母の刃を折り、母の言葉を残したまま、二人は同じ屋根の下にいた。
無月は白嶺の寝息を確認してから、小さく息を吐いた。
存分に輝きなさい、と言われても、何を輝かせればいいのかは、まだわからない。ただ、この親子の傍にいることだけは、もう迷っていなかった。
夜が、静かに更けていく。
折れた滅虹の感触だけが、まだ二人の間に残っていた。




