第80話「残響」
水色の気配がピークに達した夜、白嶺は再び川沿いへ向かった。
奈々は橋の下に立っていた。瞳はすでに水色に沈み、口元が微かに動いている。届かなかった声が、彼女の内側で溢れ出している。白嶺が近づくと、奈々が顔を上げた。目が合う。普通の目ではない。
「……加藤、さん?」
声が、二重になっている。奈々の声と、冷たくて、遠くて、しかし丁寧に聞き取ろうとする別の声が重なる。奈々本人が、一瞬だけ表に出たのかもしれない。すぐに、別の声が上書きする。
「彼女の声は、もう私の中にあるわ。届かなかった想いも、全部。重いでしょう? 置いていきなよ」
影が水面に広がり、ミズサヤの本体が形を成す。白嶺は残虹を抜き、間合いを詰めた。前回より、相手の力は増している。それでも、迷いなく斬る。
『……声、まだ増えてる。もう少しで満員になりそうね』
「満員、ではないわ。預かっているの。大事に」
ミズサヤは丁寧に訂正し、影の手を伸ばしてきた。白嶺はそれを断ち、踏み込み、核を測る。苦戦はしたが、前回の桃色ほどではなかった。刃の先から虹の光が溢れ、蓮の花弁のような光の輪が展開する。
【 虹蓮華 】
光が収束する。
ミズサヤの気配が、消えた。
奈々は地面に膝をついて倒れ、浅い息を繰り返していた。白嶺は状態を確認し、匿名で通報する余裕だけ作ってから、その場を離れた。
その直後だった。
——全部が、一気に来た。
赤の熱。橙の沈み。黄の甘さ。緑の根。青の静けさ。紫の理想。褐の安息。藍の境界の曖昧さ。桃の糸。そして水色の、届かなかった声。
これまで封じてきた色の残響が、堰を切ったように白嶺の内側へ流れ込む。一つ一つなら耐えられたものが、同時に重なると、呼吸の場所がなくなる。
白嶺は残虹を支えに、その場に片膝をついた。
視界が、色で滲む。自分がどこまでなのかが、わからなくなる。足が、動かない。
『……帰、ら——』
言葉が途切れる。残虹が手元から滑り、地面に落ちる。白嶺の身体が、そのまま横に倒れた。意識が、色の渦の中へ沈んでいく。
無月が異変に気づいたのは、白嶺の気配が途切れた瞬間だった。
約束の時間を過ぎても戻らない。窓の外の気配を測り、彩華の安全を確認してから、無月は外に出た。川沿いの方向に、残虹の気配が薄く残っている。走った。
橋の下で、白嶺が倒れていた。呼吸はある。だが、意識がない。無月は残虹を拾い、白嶺を背負った。重い。刀を握っていない白嶺の身体が、ひどく力が抜けている。
「……白嶺様。家に帰ります」
返事はない。無月は歯を食いしばり、夜の道を戻った。家に着き、白嶺を布団に下ろし、残虹を傍に置く。彩華はまだ眠っている。無月は白嶺の顔色を確認し、自分の傷の痛みを無視して、一晩中その傍を離れなかった。
白嶺が目を覚ましたのは、翌朝だった。
天井が、見慣れた天井だった。体が重い。全色の残響は、まだ渦を巻いているが、昨夜よりは浅い。横を見ると、無月が壁に背中を預けて座っている。目が合った。
「……気がつきましたか」
『……無月』
「川沿いで、倒れていました。背負って帰りました。彩華様は、無事です」
白嶺は自分の手を見た。指が、ようやく自分の指に見える。残響は残っている。だが、意識は戻った。
『……ありがとう』
無月は短く頷いただけだった。礼を言われると、わずかに視線を逸らす。白嶺は天井を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
会社は、休む。
この残響が引くまで、立つこと自体が、まだ危うかった。




