第79話「水色の匂い」
石川奈々と白嶺が、業務で顔を合わせたのは、告白の翌日の午後だった。
部署が違うため、普段はほとんど話さない。会えば軽く会釈を交わす程度だ。だが、合同の資料確認が発生し、奈々が白嶺のフロアまで書類を持ってきた。美咲の同期で、社内では美人で通っている女。白嶺は以前、悠人と二人でカフェにいるところを遠くから見たことがある。それ以上の関係はない。
「加藤さん、こちらご確認をお願いします。期限が今日中なので」
『わかった。少し待って』
白嶺は書類を受け取り、内容に目を通す。奈々は隣で立って待っている。距離は、仕事に必要な分だけだ。だが、白嶺の指先が、書類の上で一瞬止まった。
水色の匂いがする。
熱ではない。桃色のような絡みつきでもない。冷たくて、沈んでいて、届かなかった声が淀んでいるような感触だ。奈々の内側から、薄く滲み出ている。本人は気づいていない。表情は普通で、声もいつも通りだ。だが、白嶺にはわかった。入口が、すでに開いている。
『……石川さん、顔色が良くないわ』
「え? 大丈夫です。少し寝不足なだけで」
『無理はしない方がいい』
「はい。ありがとうございます」
奈々は小さく笑って頭を下げる。白嶺は書類に印をつけ、返す。奈々は「失礼します」と短く言って、席を離れた。後ろ姿に、水色の気配が細くついていく。
白嶺は一人になると、手のひらを見た。
匂いは、残っている。次の色は、すでにこの女の内側で目を覚まし始めている。放置すれば、届かなかった想いが、彼女を沈めていく。
(……近い)
白嶺は画面に目を戻した。業務を終える。今夜か、明日か。対峙のタイミングを、測り始めていた。
美咲が遠くからこちらを見ている気配がした。白嶺は振り返らなかった。桃色の残骸と、水色の匂いが、同じフロアに共存している。間を置く余裕は、やはりなさそうだった。




