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色を斬る母「白嶺」  作者: 雨-Ame-
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第76話「残ったもの」

美咲は、いつもより早く出社していた。

昨夜のことは、ほとんど覚えていない。熱があった気がする。夢を見ていた気がする。誰かに糸で絡め取られて、加藤さんだけを見ていた気がする——その先が、白い霧の中にある。はっきり残っているのは、二つの感覚だけだ。

一つは、声。

『佐藤美咲は、どんな時も純粋で、努力家だわ。私はそんな彼女が大好きなの。』

加藤さんの声だった。低くて、はっきりしていて、自分に向けられたものだった。

もう一つは、おでこの感触。

誰かに、優しく触れられた。唇、だったかもしれない。熱はなく、ただ静かで、戻ってきた、という感覚だけが残っている。

美咲は自分の席に座り、画面を開いた。顔が、少し熱い。何も覚えていないのに、胸の奥が温かい。加藤さんが「大好き」と言ってくれた——それが事実かどうかもわからない。それでも、その言葉だけが、優先的に残っていた。

朝、白嶺が席に着くと、美咲はいつものように「おはようございます」と声をかけた。白嶺は『おはよう』と短く返す。美咲はそれ以上、何も聞かなかった。聞けなかった。聞いたら、消えてしまいそうな気がしたから。

玲奈が遠くから美咲を見ていた。目が合うと、玲奈はすぐに視線を逸らす。昨日の「加藤さん以外にどう思われてもいい」という言葉が、まだ玲奈の中に残っているらしい。美咲はそれに気づかないふりをして、自分の仕事に戻った。

昼休み、美咲は一人で給湯室に立った。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。なのに、おでこに残った感触だけが、なぜか消えない。加藤さんの声も、頭の中で繰り返される。

(……大好き、って。私のこと、言ってくれたのかな)

答えは出ない。出ないまま、美咲は缶コーヒーを手に取った。白嶺が給湯室に入ってきて、軽く会釈を交わす。美咲は「お疲れ様です」と返し、先に出た。後ろで白嶺が缶を選んでいる気配がする。追いかけたい気持ちと、今のままでいたい気持ちが、同時にあった。

午後、美咲は仕事に集中しようとした。数字は追える。資料も作れる。なのに、ふとした瞬間に、あの声が戻ってくる。純粋で、努力家だわ。大好きなの。——何も覚えていない夜の、唯一の残り香だった。

退勤時間、美咲は白嶺の席を一瞬だけ見た。白嶺はすでに帰り支度を始めている。美咲は「お疲れ様です」と声をかけ、白嶺が『お疲れ』と返すのを聞いて、自分の席に戻った。

胸の奥の温かさは、夜になっても消えなかった。

美咲は帰り道で、おでこに触れた。感触は、もうない。なのに、残っている。

何も覚えていない。

それでも、あの言葉だけは、美咲の中に、はっきりと残っていた。

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