第75話「傷と腕」
白嶺が帰宅したのは、いつもより少し遅い時間だった。
玄関を開けた瞬間、血の匂いが薄く残っているのに気づいた。リビングに入ると、無月が壁に背中を預けて座っている。肩と腕に、浅いが複数の傷がある。すでに自分で応急処置はしているが、出血の跡が残っていた。
『……無月』
「試客です。三人。退けました。彩華様に、危害は」
白嶺は鞄を置き、無月の前に膝をついた。言葉より先に、手が動く。無月の傷に触れる前に、白嶺は短く息を吸い、そのまま無月を抱き寄せた。強くはない。だが、明確な腕の力だった。無月の身体が、硬直する。
『……怪我を、したのか』
「浅いものです。問題ありません」
『問題ある。おまえが、傷を負うのは』
白嶺はそれ以上言わず、無月を抱きしめ続けた。刀を握っていない白嶺の腕は、意外なほど温かかった。無月は抵抗しなかった。できなかった。頭では「こんなことで揺らぐな」と叫んでいる。心は、この腕の中で、長く追い求めていたものに、ようやく触れた気がしていた。
白嶺はゆっくりと離れ、無月の傷を改めて見た。消毒と手当を始める。無言だ。無月も、黙ってそれを受けた。刺すような痛みより、白嶺の指の温度の方が、先に残る。
「……白嶺様は、彩華様の事を最優先にお考え下さい。」
『彩華を守るために、あなたが倒れたら意味がない。役割を、果たせ』
冷たい言葉だった。だが、手当の手は丁寧だった。無月は天井を見ながら、短く息を吐いた。
(……この人は、こうだ。冷たくて、だらしなくて、刀を握れば強くて、抱きしめるときは、温かい)
家の掟も、失敗した使命も、今は遠かった。この親子を、命に変えても守る。その決意は、傷を負った今夜、さらに深く、無月の中に根を張った。
手当が終わり、白嶺はようやく壁に背中を預けた。刀を置いたあとの顔が、少しだけ緩んでいる。無月は湯飲みを出し、白嶺の手に持たせた。
「……今夜は、休んでください。私が、起きています」
『……頼む』
白嶺は短く答えて、目を閉じた。無月は眩虹を近くに置き、彩華の部屋と玄関の両方を見渡せる位置に座った。傷が、小さく疼く。それでも、離れるつもりはなかった。
夜が、静かに更けていく。
無月は白嶺の寝息と、彩華の寝息を聞きながら、自分の決意を、もう一度だけ胸の内で繰り返した。
この親子を、守る。
それ以外の居場所は、もういらない。




