第73話「桃色の繭」
桃色の気配は、美咲の住むアパートの近くで、濃く停滞していた。
白嶺は残虹を携えたまま、静かな住宅街を歩く。藍の静けさがまだ胸の奥に残っているせいで、世界の輪郭が少し柔らかい。その中で、桃色の糸が絡みつく感触が、はっきりとわかる。美咲の執着が、すでに形を持ち始めている。
古いマンションの階段を上がると、最上階のドアが半開きだった。中から、甘い匂いが滲み出している。白嶺は残虹の柄に手を置き、中に入った。
部屋の中央に、美咲が立っていた。
会社のスーツではない。桃色のふんわりとした薔薇と苺の装飾。甘いロリータ服に身を纏い、頭には白のヘッドドレスをしている。目が、合った瞬間、その瞳が桃色に濡れているのがわかった。笑顔だ。だが、以前の美咲の笑顔ではない。
「……加藤さん。来てくれたんですね」
声が、二重になっている。美咲の声と、甘くて、包み込むような別の声が重なる。
『モモマユ』
「ええ。彼女、あなたをとても欲しがってたの。そばにいたい、特別でありたい、他の誰にも渡したくない。……私が、その糸を紡いであげただけよ」
影が美咲の背後で膨らむ。桃色の糸が無数に伸び、繭のような形を作り始める。中央に、大きな、慈しむような目が開く。
モモマユだ。
『返しなさい。その子を』
「嫌。まだ、足りないの。彼女は、あなた以外いらないって思ってる。私も、そう思ってあげてるの」
白嶺は残虹を抜いた。刃が、部屋の薄闇を吸う。
『……糸、絡まりすぎ。掃除が大変そうね』
「...」
モモマユは首を傾げた。白嶺は小さく息を吐き、構えた。
『話し相手がいると、つい。あなた、ちょっと天然なところある?』
「……器、のくせに」
モモマユはそれ以上言葉を続けず、桃色の糸を一気に伸ばしてきた。白嶺は横に体をさばき、残虹で糸を断つ。切れた糸から、美咲の「加藤さんだけ」という感情の残滓が立ちのぼり、すぐに消える。白嶺はそれを見ないようにして、間合いを詰めた。
美咲の顔が、真正面に来る。知っている顔だ。慕って、ついてきて、家にまで来て、赤い顔をしていた顔。それが今、桃色の熱で満ちて、白嶺だけを見ている。
斬らなければならない。
斬らなければ、美咲は繭に閉じ込められる。
白嶺は残虹を構え直した。
決着は、ここからだった。




