第66話「二つの気配」
会社に着いた白嶺は、朝の時点で違和感を覚えていた。
指先に、薄い眠気が残る。昨夜、誰かに何かを話した気がする。内容は思い出せない。秘密を、そっと置いてきたような喪失感だけが残っている。藍の気配は、昨日よりはっきりしていた。眠りの端で、誰かがこちらの内側を覗いている。そう感じる距離まで、近づいてきている。
午前の会議中、白嶺は資料の文字を追いながら、その感触を測っていた。赤や紫のような熱はない。もっと静かに、境界を溶かすように浸透してくる。次の色は、もう本格的に動き始めている。
会議が終わり、廊下で美咲と並んだときだった。
悠人が向こうから歩いてくる。白嶺に軽く会釈をし、白嶺も短く頷き返す。それだけのやり取りだった。だが、美咲の視線が、一瞬だけ鋭くなった。悠人の背中を追う目に、熱くて黒いものが混じる。独占欲だ。慕いと憧れの下に、はっきりと顔を出したそれが、美咲の表情を一瞬だけ歪ませた。
次の瞬間、美咲は笑顔に戻った。
「加藤さん、次の資料、一緒に確認しますか?」
『いいわ』
美咲の声は明るい。だが、白嶺はあの一瞬の熱を見逃さなかった。以前の心配や期待とは違う。自分のものを、誰かに触れられたくない、という生々しい熱だ。白嶺は深く追わなかった。今は、藍の気配の方が優先だった。
同じ頃、家では無月が彩華の昼の世話を終えたところだった。
窓の外に、短い気配がよぎる。刀の気配ではない。だが、虹結の匂いがする。監視だ。家の者が、この家の周囲を嗅いでいる。無月は彩華を抱いたまま、カーテンの隙間から外を見た。人影はすぐに消えた。残るのは、薄い緊張だけだ。
(……来ている)
無月は唇を結んだ。自分がここにいることが、家に知られれば、白嶺も彩華も危険に晒される。それでも、離れるつもりはなかった。頭で損得を計算する段階は、もう終わっている。この親子を、命に変えても守る。家の掟も、失敗した使命も、今は関係ない。白嶺に憧れて剣を振ってきた自分が、今、本当に守りたいと思ったものから逃げるわけにはいかなかった。
無月は眩虹の位置を確認し、彩華をベッドに戻した。窓の外の気配は、もうしない。だが、一度嗅がれた事実は消えない。無月は窓の鍵を、もう一度確認した。
守りは、すでに始まっていた。




