第65話「語られる想い」
帰宅した白嶺は、玄関で靴を脱いだ瞬間に、そのまま壁に背中を滑らせて座り込んだ。
鞄は放り出し、スーツのまま足を投げ出す。彩華が無月の腕の中で「あー」と声を上げると、白嶺は手だけをふらりと上げて振った。それ以上、動く気配がない。
『……終わった。今日、本当に終わった』
無月は彩華を抱き直したまま、呆れたように見下ろす。
「白嶺様。せめて、ソファまでは移動を」
『無理。足が契約切れてる。無月、コーヒー』
「自分で入れろ」
『取引だ。ついででいい。砂糖少なめで』
無月は舌打ちをしてキッチンに向かった。湯を沸かしながら、後ろで白嶺が「肩も終わってる」「ネクタイが敵」とぶつぶつ言っているのが聞こえる。刀を握れば自分を一瞬で崩す女が、今は床に座ったまま、完全に気が抜けている。だらしがない。甘えきっている。無月は湯飲みを二つ用意しながら、自分の中の矛盾を意識した。
(頭では、許していない。裏切って家を出た人だ。使命に失敗した私が、こんな人の家にいること自体がおかしい)
それでも、胸の奥は違っていた。床に座って「終わった」と言う白嶺の姿が、家にいた頃の、稽古のあとで少しだけ隙を見せていた白嶺に重なる。厳しい師匠ではなく、傍にいると少し安心できた、あの人。
(……心の方が、追いついていない)
無月は湯飲みを持って戻り、白嶺の前に置いた。白嶺は目を細めて受け取り、一口すする。礼は言わない。言わなくても、無月はそれを「ありがとう」だと処理してしまった自分に、少し腹が立った。
『無月。少し、話す』
「……何を」
白嶺は湯飲みを膝に置いたまま、天井を見た。普段なら言わないことを、今夜は口に出そうとしている。無月が家にいることで、彩華が一人にならない。その安心が、言葉の栓を緩めていた。
『分家には、あまり話されなかっただろう。器の生き方』
無月の肩が、わずかに動く。白嶺は構わず、低い声で続ける。
『感じるな、と教えられる。笑え。だが本気で笑うな。泣くな。恋をするな。子を成すなら、家の管理下で、感情を極限まで抑えて産め。封印が揺らぐから。私は、それを破った』
「……知っています。あなたが家を出た理由も」
『知っているつもり、だろう。実際は、もっと単純だった。好きな人ができた。子供ができた。家に戻れば、その子がどう扱われるかわかっていた。だから、産声を上げた瞬間に封印が崩れることも、覚悟の上で選んだ』
無月は視線を逸らした。頭では「裏切りだ」と繰り返す。心では、その言葉の端々に、昔憧れた白嶺の声を聞いてしまう。
『家を出たのは、裏切りだ。それは認める。でも、戻るつもりは最初からなかった。残虹を持ち出したのも、同じだ。返すつもりはない』
「裏切ったことに、変わりはありません」
無月の声は、はっきりしていた。だが、そのあとすぐに続かなかった。白嶺の横顔を見ているうちに、頭と心がぶつかる。殺すために追ってきた。負けた。助けられた。取引でここにいる。その全部の下に、一つの事実があった。
この人を、守りたい。
家の掟どうこうではない。私はこの人に憧れて、この人の亡霊を追いかけて、今日まで生きてきた。
無月はそれを、声には出さなかった。出せば、何かが変わってしまう気がしたから。代わりに、短く息を吐いた。
「……それでも、あなたは家を出た。私は、その事実を簡単には許せません」
『許せなくていい。取引は、取引だ』
白嶺はそう言って、ようやく壁に背中を預け直した。目を閉じる。無月はしばらくその姿を見ていた。刀を握っていない白嶺は、今夜も極めてだらしない。それでも、無月の胸の奥では、古い憧れが、別の形で熱を持ち始めていた。
彩華の寝息が、部屋のどこかで続いている。
無月は眩虹に手を触れず、そのまま壁に寄りかかって立ち続けた。頭ではまだ拒否している。心は、すでにこの人の傍に、もう少しだけ居たいと思い始めていた。




