第62話「甘える刃」
無月が白嶺の家に荷物を持って入ったのは、取引の翌日だった。
部屋は狭くないが、二人で暮らす前提には作られていない。白嶺は彩華のものを片付けながら、無月に短い指示だけ出した。
『寝る場所はそこ。彩華の世話は最低限教える。あとは、自分で見て覚えろ』
「……わかっています」
無月は眩虹を壁に立てかけ、与えられた空間に座った。表情は硬い。白嶺も、それ以上何も言わない。関係は、まだ取引の延長にある。
だが、残虹を握っていない白嶺は、無月の想像と違っていた。
最初にそれを強く感じたのは、帰宅後だった。
白嶺はスーツのまま玄関で立ち止まり、靴を脱いだあと、そのまま床に座り込んだ。鞄を放り出し、背中を壁に預ける。彩華が「あー」と声を上げると、白嶺は手だけを伸ばして娘の頭を撫で、あとは動かない。
『……今日、長い会議だった。足が終わってる』
無月は黙って見ていた。会社では冷静で、無駄のない女。刀を握れば、自分を一瞬で崩す手練れ。その人が、今、床に座ったまま「終わってる」と言っている。
「……白嶺様。せめて、着替えを」
『あとで。ちょっと、休む』
白嶺は本当に目を閉じた。彩華が無月の方を見ている。無月は仕方なく娘を抱き上げ、白嶺の傍に座った。刀を握っていない白嶺は、完全に気が抜けている。肩の力がなく、声も低い。だらしがない、と言っていい。
無月は戸惑った。
殺すために追ってきた相手が、こんな顔をするとは思っていなかった。
『無月。お茶、いれるなら私のも』
「……自分で入れてください」
『取引だ。彩華を見ていろ、と言ったはず。ついででいい』
無月は舌打ちに近い音を立てて立ち上がり、キッチンに向かった。湯を沸かしながら、ふと、昔の記憶が浮上する。家にいた頃、稽古のあと、白嶺が同じように壁に寄りかかって「今日はもう無理」と笑っていたこと。厳しい師匠ではなく、少しだけ隙を見せる年上の人として、傍にいたこと。
(……あの頃と、同じだ)
無月は湯飲みを持ち、戻る。白嶺は目を開けて、それを受け取った。礼は言わない。ただ、短く息を吐いて、湯気を見ている。
『悪くない』
「……勝手に言え」
無月は視線を逸らした。胸の奥で、殺意でも使命でもない、古い感情が小さく動く。憧れて、追いかけて、置いていかれて、斬りかかって、負けて——その人が、今、自分の前でだらしなく座っている。
戸惑いながらも、無月は彩華を抱き直した。
白嶺はそれを見て、ようやく少しだけ口の端を上げた。刀を握っていないときの笑顔は、無月の知っている「優しい白嶺」に、確かに近かった。
関係は、まだ修復されていない。
それでも、同居の初日は、奇妙な静けさの中で過ぎていった。




