第61話「損得」
褐色の安息が薄れ始めてから、白嶺は彩華の守り方を改めて見直していた。
日中の保育園ルートは、すでに家に把握されている可能性が高い。手練れが一度接触してきた以上、次は彩華を直接狙ってくる想定をしておく必要がある。そして夜——彩華を家で寝かしつけたあと、自分が色を斬りに出る時間が発生する。その間、娘は家で一人になる。これまで通りでは、いずれ穴を突かれる。
無月のことも、頭の端にあった。
家に戻れない手練れが、街のどこかにいる。失敗した以上、回収か処分かだ。白嶺が助けた事実は、家にまだ知られていないはずだが、長くは持たない。無月が一人でいれば、いずれ見つかる。見つかれば、終わる。
白嶺は、感情で動くつもりはなかった。
ただ、損得を揃えた。
日中、彩華を保育園に出し続けるリスクを減らせる。
夜、自分が外に出る間の守りができる。
無月は、少なくとも家にすぐ回収されずに済む。
家の体制が「次の器」を確保すれば、無月のような失敗した分家の居場所はさらに消える。それを防ぐ側に回る方が、無月にとっても損が少ない。
白嶺は、無月の居場所を特定するのに、半日もかからなかった。安宿の場所は、路地の匂いと刀の気配でわかった。
無月は、部屋の中で眩虹を膝に置いて座っていた。
ドアが開く音に、顔を上げる。白嶺が立っていた。着物ではない。普段の服だ。それでも、無月の肩がわずかに強張る。
「……白嶺様」
『話すことがある』
「断ります。何を言われても」
白嶺は部屋に入り、ドアを閉めた。座る気配はない。立ったまま、無月を見る。
『家に戻るつもり?』
無月は黙った。答えは、両方ともわかっている。
『戻れば、処分される。ここにい続けても、いずれ見つかる。どちらも、おまえに得はない』
「あなたに、助けられるつもりはありません」
『助けではない。取引だ』
無月の目が、鋭く細められる。
『私の家にいろ。日中は彩華を見ていろ。夜、私が外に出る間も、見ていろ。それだけでいい』
「……ふざけるな」
無月が立ち上がる。眩虹の柄に手がかかるが、抜かない。
「あなたに憧れて、剣を振って、置いていかれて、斬りかかれと命じられて、負けて——その挙げ句に、今度は娘の守り役ですか。私を、何だと思っているんですか」
『行く宛のない手練れだと思っている』
言葉が、冷たく落ちた。無月の顔が、一瞬歪む。
『彩華が家に奪われれば、次の器が立つ。家の体制は固まる。そうなれば、おまえのような失敗した分家の人間の居場所は、今以上になくなる。私の家にいる方が、まだ損が少ない』
「……そんな理由で」
『理由は、それだけだ』
無月は歯を食いしばり、視線を逸らした。拒否の言葉が、喉まで来て、止まる。白嶺はそれ以上、何も重ねなかった。損得を並べただけだ。感情は、乗せていない。
長い沈黙のあと、無月が短く息を吐いた。
「……わかった。一時的に、だ。それ以上の意味は、持たせるな」
『持たせない』
白嶺はそれだけ言って、ドアに手をかけた。
『場所は教える。刀は、持っていろ。ただ、彩華には向けるな』
無月は答えなかった。答える代わりに、眩虹を鞘に深く押し込んだ。
取引は、成立した。
関係は、まだ何も修復されていない。それでも、無月に今夜の行く宛ができた。
白嶺は部屋を出た。
後ろで、無月が小さく何かを呟いた気がしたが、聞かなかった。




