第60話「行く宛のない刃」
褐色の安息は、他の侵食より静かに残った。
朝、白嶺は彩華を抱き上げながら、ふと「このまま座っていてもいい」と思う。立たなくていい、という感覚が、身体の芯に残っている。心地よい。だからこそ、危険だった。白嶺は意識して立ち上がり、離乳食の準備を始めた。失っているものが何かは、はっきりしない。ただ、以前より「休みたい」が口に出やすくなっている。
会社では、いつも通りに振る舞った。美咲が資料を持ってきて、短く会話する。悠人が廊下ですれ違い、軽く会釈を交わす。玲奈は自分の仕事に集中している。誰も、昨夜のことを知らない。知られてはならない。
白嶺は昼休みに、一人で手のひらを見た。土の感触は、もうかなり薄い。だが、完全には消えていない。無月を助けた判断が、正しかったのかどうかも、まだ測りきれない。家は失敗した手練れを許さない。無月は、もう家に戻れない。戻れば、処分されるだけだ。
(……私のせい、というわけではない)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に小さな引っかかりが残る。かつての無月は、自分の剣を目で追っていた。憧れて、近づいて、追いつけないまま、置いていかれた。白嶺が家を出たとき、無月はまだ若かった。今は、行く宛を失っている。
白嶺はそれ以上、考え続けなかった。
考えても、今すぐ手を差し伸べられる状況ではなかった。家の目が、まだ街にある。無月に近づければ、彼女をさらに危険に晒す。
同じ頃、無月は街の端の安宿で、眩虹を膝に置いて座っていた。
体は動く。傷も浅い。だが、次に何をすればいいのかが、ない。家に連絡すれば、回収されるか、処分されるかだ。白嶺の元へ行けば、今度は白嶺を巻き込む。どちらも、選べなかった。
「……白嶺様」
短く呟いても、返事はない。
憧れて、剣を振って、追いかけて、斬りかかれと命じられて、負けて、飲み込まれて、助けられて——。その先が、なかった。
無月は眩虹の柄に手を置き、目を閉じた。
行く宛のない刃が、夜の部屋に残されていた。




