第6話「赤の匂いのする日」
朝の白嶺は、彩華の離乳食を作りながら、何度か手元を止めた。
スプーンを持つ指に、余計な力が入る。ヨーグルトの容器を開く音が、自分の耳にだけ尖って聞こえる。
彩華は椅子の上で機嫌よく手足を動かしていた。その仕草が、今日は少しだけ煩わしく見える。
『……ごめん』
また謝っていた。誰に対してなのか、自分でも曖昧だ。
昨夜の熱は、朝になっても完全には引いていなかった。胸の奥に、小さな赤が残っている。
怒っていないのに、怒りに近い熱がある。悲しんでいないのに、誰かを押しのけたい衝動がある。
白嶺は深呼吸をして、彩華にスプーンを向けた。
会社では、美咲が朝から気を遣っていた。
「加藤さん、今日も少し顔色が……大丈夫ですか?」
『大丈夫よ』
「本当ですか? 無理しないでくださいね」
美咲の心配そうな目が、白嶺には少し重い。
普通なら、ありがたいと思うはずだった。今日は、ただ距離を測ってしまう。
午後、給湯室で缶コーヒーを買っていると、中村玲奈が入ってきた。
「あら、加藤さん。昨日はどうも。気分、良くなった?」
声の裏に、明らかな嘲笑がある。
白嶺は缶のプルタブに指をかけたまま、玲奈を見た。
『中村さんこそ、顔色が悪いわよ。嫉妬は肌に出るらしいわね』
自分でも、少し言い過ぎだと思った。
玲奈が目を見開く。次の瞬間、彼女の顔が赤くなった。
「……はあ? 何よそれ」
『気のせいよ』
白嶺は缶を開けて、その場を離れた。
後ろで玲奈が何かを言いかけて、飲み込んだ気配がした。
(……やりすぎた)
赤の残り香が、舌を少しだけ鋭くしている。白嶺はそれを自覚していた。
退勤前、藤原悠人が書類を届けてきた。
「加藤さん、これ、確認をお願いします」
『ありがとう』
白嶺は書類を受け取り、軽く頭を下げた。
悠人はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れる。
白嶺は書類の封を確認しながら、自分の指先がわずかに熱を持っていることに気づいた。
昨夜の赤のせいだろう。そう判断して、彼女はそれを深く考えなかった。
夜。
彩華を寝かしつけた白嶺は、窓を開けて外の空気を入れた。
赤い月は、もう出ていない。普通の、薄い月だった。
『……次は、もう少し上手くやる』
誰にともなく呟いて、白嶺はカーテンを閉じた。
胸の奥の熱は、まだ完全には消えていなかった。




