第5話「熱の残り」
朝、白嶺は彩華の泣き声で目を覚ました。
いつもより早く、いつもより鋭い声だった。
白嶺は布団から起き上がり、ベビーベッドに近づく。彩華は顔を真っ赤にして泣いていた。理由はわからない。おむつも、空腹も、熱もない。
『……静かにして』
自分の声が、思ったより冷たく出た。
彩華はますます声を大きくする。白嶺は眉間に皺を寄せ、娘を抱き上げた。抱いた瞬間、腕に妙な力が入る。強く、熱い。
(……違う)
白嶺は意識して力を緩めた。
昨夜、封じた「赤」が、まだ身体の中で暴れている。生への執着。苛立ち。誰かを押しのけても前に進みたい、という衝動。それが、母親としての動作に混ざる。
『ごめん』
小さく謝っても、彩華の泣きは止まなかった。
会社に着いた頃には、頭痛がしていた。
美咲がいつものように笑顔で近づいてくる。
「加藤さん、おはようございます! 昨日の夜、すごく赤い月でしたね。見ました?」
『……見てないわ』
「そうですか。なんだか、興奮するような月でした」
美咲の明るさが、今日は少しうるさい。白嶺は書類に目を落としたまま、短くだけ頷いた。
午後、会議中に中村玲奈がわざとらしい大きなため息をついた。
「加藤さん、今日は機嫌が悪そうね。シングルマザーは大変よねぇ」
普段なら流す言葉だった。
今日は、指先が微かに震えた。
『……中村さん』
玲奈が顔を上げる。白嶺の声は低かった。
『仕事の話以外は、しなくていいわ』
会議室が、一瞬静まった。玲奈は唇を歪めて何も言わなかった。美咲が心配そうに白嶺を見ている。悠人は、テーブルの向こうから静かにこちらを注視していた。
白嶺は自分の手が、まだ熱を持っていることに気づいた。
夜、彩華を寝かしつけた後、白嶺は一人で浴室に入った。
鏡に映る自分の目が、わずかに赤い。気のせいかもしれない。
蛇口から出る水を両手で受けて、顔を洗う。冷たい。それでも、胸の奥の熱は取れない。
『……まだ、残ってる』
誰にともなく呟く。
昨夜のアケバミの声が、頭の片隅で笑った気がした。
白嶺はタオルで顔を拭い、そのまま鏡を見た。
白髪の女が、疲れた顔でこちらを見返している。
今夜は、もう外に出ない。
出れば、また何かを斬ってしまう気がしたから。




