第55話「土の匂い」
玲奈が戻ってから、会社の空気は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
以前のような鋭い視線はなく、嫌味も減った。口は相変わらず立つが、熱がない。美咲はそれを「中村さんが楽になったみたい」と受け取り、白嶺は何も言わなかった。紫の侵食は、すでにかなり薄れている。
白嶺が異変に気づいたのは、会議室で資料を整理している最中だった。
指先に、ごく薄い土の感触が残る。乾いたわけでも、湿っているわけでもない。ただ、地面に触れたあとのような、低い匂いがする。白嶺は手を止め、窓の外を見た。特に何もない。ビルの谷間に、いつもの街が広がっているだけだ。
(……また、来ている)
赤の熱でも、青の静けさでもない。もっと低くて、重くて、誘うような感触だ。「もう立たなくていい」と、どこかで囁かれている気がする。白嶺は首を振り、資料に目を戻した。
ドアが開き、美咲が入ってきた。手に、次の会議用のファイルを抱えている。
「加藤さん、これ、最終確認をお願いします」
『見せて』
美咲は隣に立ち、紙を広げる。白嶺が印をつけている間、美咲は何度か口を開きかけて、閉じた。言いたいことがあるのに、言えないでいる顔だった。
『何か、言いたいことでも?』
「……いえ。その、加藤さんと仕事してると、私ももっとできるようになりたいって、思うんです。前より、強く」
期待が、声の端に混じっている。心配ではない。自分の成長を、白嶺に見ていてほしいという、前向きな熱だ。白嶺は書類から顔を上げ、美咲を見た。
『焦らなくていい。今のままで、十分やってるわ』
「でも、加藤さんみたいに……」
『私みたいにならなくていい。佐藤さんは、佐藤さんのやり方でいいの』
美咲は一瞬、何か言いたそうにして、それから小さく笑った。嬉しさと、少しの歯がゆさが混じった顔だった。白嶺は書類を返し、美咲が席に戻るのを見送る。
一人になった会議室で、白嶺は再び指先を見た。土の匂いは、もうほとんど残っていない。だが、完全に消えたわけでもなかった。
次の色は、低いところから来ている。
焦らず、だが確実に、近づいてきている。




