第52話「空席の先」
玲奈の席は、一週間が過ぎても空いたままだった。
朝会で名前が呼ばれても返事はなく、共有フォルダに上がる書類も止まったままになっている。美咲は時折その空席を見て、不安そうに唇を噛んでいた。白嶺は特に何も言わない。言う必要のないことと、言えないことが、同じ場所にある。
悠人が書類を持ってきたとき、彼も空席に一瞬目を向けた。
「中村さん、まだ戻らないんですね」
『ええ』
「……加藤さんも、少し疲れていませんか」
『気のせいよ』
悠人はそれ以上聞かず、短く頷いて席を離れた。白嶺は彼の背中を見送りながら、自分の内側を探る。青い静けさはもうほとんど残っていない。家の手練れの通告は、まだ次の行動に繋がっていない。だが、玲奈の欠勤が続く今、別のものが確実に近づいている。
その日の仕事を終えた白嶺は、彩華を保育園に迎えに行ったあと、いつもの道を外した。
空気の質が、変わっていた。熱ではない。静けさでもない。理想を見せ、陶酔させ、現実を憎ませるような、甘くて重い気配が、住宅街の奥から流れてきている。玲奈の空席が、ただの欠勤ではなくなって久しい。今夜は、その先に逢いに行く。
白嶺は彩華を寝かしつけ、着物に袖を通し、残虹を帯びた。髪が虹色に変わるのを確認してから、外に出る。
気配の元は、駅から離れた、古いマンションの屋上だった。非常階段を上がると、風が強い。夜の街明かりが下に広がっている。
そこに、玲奈が立っていた。
会社のスーツではない。薄い色の服を着て、髪を下ろしている。表情は、どこか恍惚としていて、以前の尖った目ではなかった。白嶺が近づくと、玲奈がゆっくりと振り返った。
「……加藤さん」
声が、二重になっている。玲奈の声と、別の、滑らかで陶酔した声が重なる。
『出てこい』
玲奈の影が、夜の風の中で引き伸ばされる。紫の気配が形を成していく。鏡のような破片が浮き、いくつもの顔が重なり、中央に大きな目が開く。理想を映し、陶酔を与える異形。
シトウだ。
「器。彼女は、あなたを欲しがっていた。なりたかった。追い越したかった。私が、その理想を見せてあげただけよ」
玲奈の口が動く。だが、言葉はシトウのものだ。
『返しなさい。その身体を』
「まだ、足りない。彼女は、もっと高くなりたいの。あなたのように」
白嶺は残虹を抜いた。刃が、夜の光を吸う。
対峙は、始まった。




