第41話「見ている男」
藤原悠人は、加藤白嶺を「綺麗な人」だとは思っていた。
最初は、それだけだった。白髪で、仕事ができて、無駄な話をしない。社内でも評価は高く、男性社員の間では下心混じりの噂が絶えなかった。悠人はそれに乗らなかった。乗らなかっただけだ。特別な感情があったわけではない。
変わり始めたのは、白嶺が時折見せる「遠い目」を意識してからだ。
会議中、ふと視線が窓に向く。退勤後、誰も見ていないところで、肩の力が抜けきっていない。子供がいることは、社内ではほとんど知られていない。悠人は偶然、保育園の方向へ向かう白嶺の背中を見たことがあった。それ以来、彼女の「普通」が、少し違って見えるようになった。
好き、という言葉は、まだ使わない。
ただ、気になる。守りたい、というより、壊れないでいてほしい、と思う。下心ではない。自分でも、そう信じている。
その日の夕方、残業が一段落した頃だった。
給湯室の前で、先輩の社員が数人で話している。悠人は通りかかりに、声を聞いた。
「しかし、加藤は本当に綺麗だよな。あの白髪がまた色気になってるし」
「そりゃ加藤はキレイだもんなあ。あんな女と一発ヤリてぇよなあ」
笑い声が混じる。下卑た温度だ。悠人は足を止めた。
「藤原もそう思うだろ? ああいうの、一度でいいから」
悠人は、自分でも意外なほど静かに、しかし明確に声を出した。
「やめろ」
場の空気が、固まる。先輩が振り返る。
「あ? 何すか、藤原さん」
「加藤さんを、そんな汚い目で見るな」
声は低かった。怒鳴ってはいない。だが、普段の悠人にはない、冷たい拒絶が混じっていた。先輩は何か言いかけて、悠人の目を見て口を閉じた。他の社員も、視線を逸らす。
「……冗談だよ。そんなに本気になるなよ」
「冗談にしては、下品です」
悠人はそれだけ言って、給湯室を出た。後ろで、誰かが小さく舌打ちをするのが聞こえた。気にしなかった。
手のひらが、熱い。
下心で語られる白嶺を、聞けなかった。白嶺が自分でどう思っているかなど、関係なかった。ただ、許せなかった。
(……俺は、何をしている)
悠人は自分の席に戻り、画面を開いた。文字は頭に入ってこない。白嶺の席は、すでに空だった。退勤したらしい。
悠人は天井を見た。
加藤白嶺を、どうしたいのか。答えは、まだ出せなかった。出せないまま、彼はキーボードに手を置いた。
下心ではない。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥の熱は、簡単には消えなかった。




