第39話「残る根」
朝、白嶺は彩華の顔を見ていて、一瞬、別の顔を重ねた。
自分が幼い頃の、白い髪の女の顔だった。母親だったか、家の誰かだったか、はっきりしない。美化された記憶が、緑の侵食とともに、ふと浮かび上がる。白嶺は瞬きをして、それを消した。
『……おはよう』
彩華は小さく手を伸ばす。白嶺はその手を取り、いつもの朝を始めた。侵食は、熱や沈みや甘さとは違う。静かで、根深い。意識していないと、過去の方へ引き摺られていく。
会社では、美咲が朝から様子を窺うように近づいてきた。
「加藤さん、おはようございます。昨日、少し疲れてませんでしたか?」
『大丈夫よ』
「本当ですか? 何かあったら、言ってくださいね」
白嶺は短く頷いた。美咲の心配は本物だ。だが、今はそれに深く応える余裕がない。家の影が動いている。緑の根が、自分の中に残っている。美咲の熱を、どう扱うかまで手が回らなかった。
美咲は「はい」と返事をして、自分の席に戻る。白嶺の「大丈夫よ」を、いつもより少しだけ大切そうに受け取っているのがわかった。白嶺はそれを、今は止めなかった。
退勤後、白嶺はルートを変えて保育園へ向かった。
人通りの多い通りを選び、死角を減らす。監視の気配は、今日は直接感じなかった。だが、見られていないという保証はない。家紋の包み、黒いコートの男、公園での気配。家は、すでに「次の器」を確保する準備に入っている。
彩華を抱き上げたとき、緑の侵食が小さく反応した。娘の体温が、過去の誰かの体温と重なる。白嶺はそれを意識的に切り離し、娘だけを見るようにした。
『……帰ろう』
夜の道を、白嶺は娘を抱いて歩いた。
根は、まだ完全には枯れていない。それでも、今日は刀を持たずに済んだ。それだけを、手がかりにする。
家に着き、鍵を二重にかけ、彩華を寝かしつける。白嶺はソファに座り、天井を見た。
過去は、美しくなって返ってくる。
家は、冷たくなって迫ってくる。
どちらも、娘の元には届かせない。
白嶺は目を閉じた。
今夜は、それで十分だった。




