第37話「根を張るもの」
緑の匂いは、翌日にはさらに濃くなっていた。
白嶺は会社で書類を処理しながら、時折、指先に土の感触のようなものを覚えた。気のせいかと思う。だが、退勤して彩華を抱いた瞬間、その感触ははっきりと自覚できるものになった。娘の体温の下に、湿度を含んだ緑の気配が重なっている。
帰宅後、白嶺は彩華をいつものように世話した。食事、入浴、寝かしつけ。手順を終えても、気配は引かない。むしろ、部屋の外から、ゆっくりと近づいてくるように感じられた。
時計が十二を刺した頃、白嶺は決断した。
着物に袖を通し、残虹を帯びる。髪が虹色に変わるのを、鏡の中で確認する。彩華の寝息を一度聞いてから、白嶺は外に出た。
気配の元は、駅から少し離れた、古い公園の奥だった。街灯が少なく、木々が密集している。白嶺が足を踏み入れると、空気が湿っていた。土と葉の匂いが、実際に鼻につく。
ベンチではなく、木の根元に、一人の女性が座っていた。
三十代半ばくらい。長い緑がかった髪を下ろし、白い服に蔓のような装飾を纏っている。膝の上に、古い写真立てのようなものを抱えていた。表情は穏やかで、懐かしむような目をしていた。
白嶺が近づくと、女性が顔を上げた。目が合った瞬間、その瞳が深い緑に沈んでいるのがわかった。
「……器。久しぶりね」
声は、優しくて、どこか遠い。
『スイガロ』
「ええ。記憶を、育てているの。捨てられなかった未練を、芽吹かせて、籠に入れているの。あなたにも、残っているでしょう? 手放せないもの」
白嶺は残虹の柄に手を置いた。
『出てこい』
女性の周囲の木々が、ゆっくりと動く。蔓が伸び、根が隆起し、大きな異形が夜の中に形を成していく。写真のようなものが、いくつも幹に埋め込まれている。緑の目が、複数、白嶺を見ていた。
スイガロだ。
「斬っても、また生えるわよ。根は、深いから」
『それでも、斬る』
白嶺は刃を晒した。月明かりが、残虹の切っ先に落ちる。
対峙は、始まったばかりだった。




