第34話「普通が特別になる」
美咲は、白嶺が自分から距離を置いているとは思っていなかった。
むしろ、いつも通りだった。
朝の「おはよう」。仕事の短いやり取り。時折くれる「無理しないで」という言葉。どれも、以前と変わらない。変わらないのに、美咲の受け取り方が、明らかに変わっていた。
普通の挨拶が、胸に残る。
普通の視線が、特別に感じる。
白嶺が特に何もしていないのに、美咲の方だけが熱を持ってしまう。
昼休み、美咲は給湯室で白嶺と二人になった。白嶺は缶コーヒーを選び、美咲は麦茶を選ぶ。沈黙は、気まずくなかった。白嶺にとっては、ただの沈黙だ。美咲にとっては、近さが意識される時間だった。
「加藤さん、最近、少し忙しそうですね」
『そう見える?』
「はい。前より、考え事をしてる感じがして」
白嶺は缶のタブを引きながら、短く返した。
『気のせいよ』
その一言で、美咲は「そうか、気のせいなんだ」と納得しようとする。納得しきれない。白嶺の横顔が、いつもより少しだけ遠い気がする。家のことなど、美咲は知らない。ただ、白嶺が何かを抱えているように見えて、心配になる。心配が、すぐに別の熱に変わる。
(……私に、何かできることあるのかな)
美咲はそう思いながらも、何も言えずに給湯室を出た。
同じ日の夜。
白嶺は彩華を寝かしつけたあと、引き出しの鍵を確認した。残虹はそこにある。家の影は、まだ直接的な接触をしてこない。監視の男が一度現れただけだ。次があることは、わかっている。
窓の外に、月が出ている。薄い光だ。色の気配は、まだ形にならない。
白嶺はカーテンを閉じ、ソファに座った。
美咲の視線が、最近特に強い。家を訪ねさせてからの変化だろう。白嶺はそれを、悪くは思っていなかった。ただ、今は応える余裕がない。家が動いている。色も、また来る。その間で、美咲の熱をどう扱うかまで、手が回らなかった。
『……普通でいい』
誰にともなく呟く。
普通に接していれば、美咲もそのうち慣れる。そう思いたかった。
実際は、美咲の方の熱が、静かに、しかし確実に強くなっていることを、白嶺はまだ正確には測れていなかった。




