第33話「動く影」
家紋の包みを燃やしてから、三日が経っていた。
白嶺は日常を崩さず、しかし確実に備えを進めていた。残虹は鍵付きの引き出しに移し、彩華の送り迎えのルートを二通りに増やした。会社では、周囲に気づかれないよう、いつも通りに振る舞う。美咲の視線が以前より強く自分に向いていることには気づいていたが、今はそれに応える余裕がなかった。
退勤後、白嶺はいつもと違う道を選んで駅へ向かった。
人通りの多い通りを避け、一本入った静かな道を歩く。電柱の影、植え込みの隙間、建物の死角。視線を、無意識に走らせる。家が動くなら、次は人の形をして来る。その認識が、足取りをわずかに慎重にしていた。
曲がり角で、白嶺は足を止めた。
向こうから、一人の男が歩いてくる。年齢は四十代半ばくらい。黒いコートを着て、手に何も持っていない。普通の通行人に見える。だが、白嶺の感覚が、わずかに反応した。
男は白嶺の前を、特に何もせずに通り過ぎた。
肩が触れ合うこともない。目も合わない。ただ、通り過ぎたあとに、男のコートの袖口に、小さく虹結の家紋が刺繍されているのが、白嶺の視界に入った。
白嶺は振り返らなかった。
振り返れば、相手に「気づいた」と伝えることになる。彼女は同じ速度で歩き続け、駅の明かりが見えてから、ようやく息を一つ吐いた。
(……監視か)
接触ではない。牽制でもない。ただ、こちらを見ているという事実を、静かに突きつけてきた。家は、すでに動いている。次の器を確保するための、準備段階に入っている。
白嶺は改札を通り、電車に乗った。窓に映る自分の顔は、いつもの白髪の女のままだった。
彩華を、絶対に渡さない。その決意は、昨日より少しだけ硬くなっていた。
保育園の入り口で、彩華が手を振っている。
白嶺は娘の元へ歩いていき、抱き上げた。小さい手が、白嶺の髪に絡む。
『……行こうか』
短く言って、白嶺は夜の道を戻り始めた。
後ろに、家の影がついているかどうかは、もうわからなかった。わからないまま、彼女は娘の体温を腕の中に感じながら、歩いた。




