第3話「夜の匂い」
彩華を寝かしつけたのは、二十二時を少し回った頃だった。
白嶺は部屋の照明を落とし、窓の外を見た。月は欠けている。明るくはないが、影を落とすには十分な光があった。
胸の奥のざわつきは、昨日よりはっきりしていた。
赤いものへの反応だけではない。どこか遠くで、誰かの感情が熱く、急いて、壊れているような感触がある。
白嶺は静かにクローゼットを開けた。
中段に畳まれた黒い着物がある。リサイクルショップで五千円で買ったものだ。縫い目のほつれを自分で直し、帯も合わせておいた。
本物の家の装束ではない。ただ、夜に刀を持つとき、あまりに「今の自分」のままでは、何かが足りなかった。
雰囲気を、整えたかっただけだ。
着てしまえば、安価な中古品であることなど、月明かりの下では誰にもわからない。
その横に、物干し竿として使っていた「残虹」があった。布を外し、鞘を手に取ると、予想以上に冷たい。
着替えて、髪を結い上げる。
鏡の中の自分が、ゆっくりと変わった。長い白髪が、虹色の筋を帯びて落ちていく。
『……行くよ』
誰にともなく呟き、部屋を出た。
夜の公園は、人が少なかった。
街灯の間隔が広く、影が濃い。白嶺は残虹を携えたまま、ゆっくりと歩いた。刀を帯びていることに、不思議と違和感はない。体が覚えている。
ベンチに一人、女性が座っていた。
赤いコートを着ている。年齢は白嶺とそう変わらない。俯いて、自分の手首を強く握りしめている。
白嶺は十歩ほど手前で足を止めた。
女性が顔を上げる。目が、合った。
普通の目ではない。熱を帯びて、どこか渇いている。
「……あなた、見えるのね」
女性の口から、自分のものではない声が混じって漏れた。
白嶺は黙って残虹の柄に手を置く。
月明かりの下で、女性の影が、ゆっくりと引き伸ばされていった。
赤いものが、そこから溢れ出す。




