第2話「赤い残像」
翌朝も、白嶺の一日は平凡に始まった。
彩華は機嫌よく起きて、小さな手で白嶺の髪を掴んだ。白い長い髪が、娘の指の間を滑る。
白嶺はそれを黙って許しながら、離乳食を温めた。
『……今日も、普通に終わるといいね』
誰にともなく、小さく呟く。
窓の外は、よく晴れていた。
会社では、美咲が朝から少し浮かれていた。
「加藤さん、今日の午後の会議、一緒ですよね? 私、資料のまとめ方、まだ自信なくて……」
『事前に目を通しておくわ。大丈夫』
「やっぱり加藤さんだ……!」
美咲が目を細めて笑う。その様子を、中村玲奈がコピー機の前から見ていた。視線は冷たく、すぐに逸らされた。
白嶺は気に留めなかった。
気に留める余裕が、最近はあまりなかった。
昼休み。
白嶺は一人で社内の喫煙所近くのベンチに座っていた。煙草は吸わない。ただ、人が少ない場所が必要だった。
「加藤さん」
声をかけてきたのは、藤原悠人だった。手には缶コーヒーを持っている。
『……何か?』
「いいえ。顔色が少し悪いかと」
白嶺は鏡を見るように、自分の顔に手を当てた。特に変わった感覚はない。
『気のせいよ』
「そうですか」
悠人はそれ以上聞かず、少し離れた位置に座った。無理に話を続けるでもなく、沈黙を共有するでもない。ただ、そこにいる。
白嶺は缶コーヒーの冷たさを指に感じながら、空を見た。
(……赤い)
ビルの壁に反射した光が、なぜか赤く見えた。気のせいかもしれない。最近、よくあることだ。
夕方、保育園への道。
白嶺は彩華を抱いたまま、交差点で足を止めた。
前を歩く女性のバッグが、鮮やかな赤だった。
その女性がふと立ち止まり、自分の手首を強く握りしめている。骨が軋むほどの力だ。
白い指が、徐々に赤く染まっていく。
白嶺は目を細めた。
女性は数秒後に力を緩め、何事もなかったように歩き出す。周囲の人は誰も気づいていない。
白嶺は彩華の頭を片手で支え直した。
『……彩華、帰ろう』
声は、いつものように平らだった。
だが、胸の奥で、昨日よりはっきりとした何かが、動いていた。
夜が、近づいている。




