第1話「白い朝」
この物語は、「母親であること」と「自分であること」の間で揺れ続ける、一人の女の話です。
白嶺は、普通のシングルマザーとして昼を生き、夜になると刀を手に取ります。
彼女が斬るのは人ではなく、人に取り憑く「色」です。
そして封じるたびに、その色が持っていた感情が、彼女の心を侵食していきます。
完璧な正義も、清らかな自己犠牲も、ここにはありません。
あるのは、削られながらも娘のそばに在り続けようとする、一人の母親の選択だけです。
日常の温度と、月下の静寂。
その両方を、できるだけ素直な筆致で書きたいと思います。
どうか、白嶺という女の歩幅に、しばらく付き合っていただければ幸いです。
朝の光が、薄いカーテンを透かして部屋に差し込んでいた。
白嶺はベッドの縁に腰を下ろし、小さな寝息を立てる娘を見ていた。
彩華は生後十ヶ月。昨夜は何度か泣いて起きたが、今は穏やかな顔で眠っている。指先が小さく動くたびに、白い毛布がかすかに揺れた。
『……おはよう』
声をかけても、返事はない。当然だった。
白嶺はゆっくりと身を起こし、テーブルに置いたまま冷めたコーヒーに口をつける。苦くて、薄い。
鏡に映る自分は、ただの長い白髪の女だった。
特に派手な化粧はしていない。アイロンの跡が残るブラウスに、黒のスラックス。虹結家の人間が見たら、嘆くような格好だ。
それでも、これが今の自分だった。
会社に着くと、いつものように佐藤美咲が近づいてきた。
「加藤さん、おはようございます! 昨日の資料、すごくわかりやすかったです」
美咲は目を輝かせて笑う。白嶺は軽く頷いた。
『佐藤さんも、そろそろ自分でまとめられるようになったわね』
「えへへ……加藤さんに教えてもらったおかげです」
その後ろで、中村玲奈が書類を抱えながら視線を滑らせた。口元に、小さく冷たい笑みが浮かんでいる。
「はぁ、またご高説を拝聴してるの? 美咲ちゃんもいいご身分ね」
美咲が何か言い返そうとするのを、白嶺は目だけで制した。
玲奈はそれ以上何も言わず、ヒールの音を立てて去っていく。白嶺は追わなかった。
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、藤原悠人が入ってきた。
「加藤さん、お疲れ様です」
『……藤原さん』
それ以上の会話はなかった。悠人は自分のカップを手に取り、静かに白嶺の横を通り過ぎる。去り際に一度だけ、彼女の横顔を見ていた。
白嶺はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
夕方。
保育園に彩華を迎えに行く道すがら、白嶺はふと足を止めた。
信号待ちの人混みの中で、誰かが声を荒げている。
赤信号を無視して渡りかけた車に、怒鳴り声が飛んだ。
普段なら見過ごすような光景なのに、なぜか今日は目に残った。
赤いブレーキランプ。
赤い看板。
赤いスマホのケース。
街の「赤」が、妙に視界に引っかかる。
白嶺はゆっくりと目を細めた。
……気のせいか。
彩華を抱いてアパートに帰り着いたとき、空はすでに暗くなり始めていた。
娘をベッドに下ろし、白嶺は窓の外を見る。
何も起きていない。
普通の夜だ。
それでも、胸の奥のどこかが、静かにざわついていた。




