第29話「見ている側」
美咲は、白嶺のことを考える時間が明らかに増えていた。
週末に家を訪ねてから、特にそうだ。薄いキャミソールの感触も、「ちゃんと見てるから」という言葉も、頭の中で繰り返し再生される。好きだという自覚は、もう隠れようがなかった。それでも、会社ではできるだけ普通に振る舞うようにしていた。普通にできているかどうかは、自分でも怪しい。
月曜日の朝、美咲は白嶺の席に近づきすぎないよう、意識して距離を取った。
「おはようございます」とだけ言って、すぐに自分の席に戻る。白嶺は『おはよう』と短く返しただけだった。その短い声だけで、胸の奥が熱くなる。
(……だめだ。仕事中に何考えてるんだろ)
昼休み、美咲は一人でコンビニに向かった。帰りに、廊下で中村玲奈とすれ違う。玲奈は美咲を見て、小さく鼻を鳴らした。
「最近、加藤さんに懐きすぎじゃない? 目が完全に追ってるわよ」
「……気のせいです」
「気のせいならいいけど。同性に夢中になって、どうする気?」
美咲は何も言い返せなかった。玲奈はそれ以上何も言わず、ヒールの音を立てて去っていく。美咲はコンビニの袋を握りしめたまま、その場にしばらく立っていた。
午後の会議で、美咲は白嶺の横顔を見てしまった。
資料を説明している白嶺は、いつものように冷静で、無駄がなかった。週末にあんな格好でドアを開けた人と、同一人物だとはまだうまく信じられない。子供がいて、一人で育てていて、白髪は生まれつきで、それでも会社ではこんなに普通に見えている。
(私は、どこまで知ったんだろう)
会議が終わり、美咲は自分の席に戻った。画面を開いても、文字が頭に入ってこない。白嶺が席を立つ気配がすると、視線が自然と追ってしまう。自分でも、それがわかっていた。
退勤時間近く、白嶺が先に帰り支度を始めた。美咲は「お疲れ様です」と声をかけた。白嶺は振り返って、軽く頷く。
『お疲れ。無理しないで』
その一言が、また胸に残った。
美咲は鞄を抱えたまま、白嶺の背中を見送った。
帰りの電車の中で、美咲は窓に額をつけた。
好きだ。はっきりと、好きだ。
でも、白嶺は自分をどう見ているのか、まだわからない。見る側でいるしかない自分が、少しだけ歯がゆかった。




