第28話「薄れたあと」
甘い侵食は、三日目でかなり薄れていた。
朝、白嶺は彩華を抱き上げても、余計な優しさに引っ張られることがなくなっていた。離乳食のスプーンも、普通の重さで持てる。胸の奥に残っていたまとわりつく感覚は、もうほとんど意識しなくていい。
失ったものが何かは、はっきりしない。
ただ、以前より少しだけ、「誰かに優しくしなきゃ」という思考が減っている気がした。減った分、楽でもあり、少しだけ空虚でもあった。
会社では、美咲が相変わらず時折視線を寄せてきた。
「加藤さん、おはようございます。今日は調子良さそうですね」
『そう?』
「はい。前より、普通というか……安定してる感じがします」
白嶺は短く頷いて、自分の席に向かった。美咲の意識はまだ自分に向いている。週末の訪問の余韻が、まだ彼女の中に残っているのだろう。白嶺はそれを、特に否定も肯定もしなかった。
玲奈は遠巻きに見ているだけだった。悠人は、必要なときだけ言葉をくれる。会社の空気は、いつもの均衡に戻っていた。
退勤後、白嶺は彩華を迎えに行き、いつもの道を歩いた。
空はすでに暗くなり始めていた。色の気配は、今夜は感じない。黄の次が何なのか、まだ輪郭はない。それでも、次が来ることはわかっている。間が空いただけだ。
帰宅後、白嶺は彩華と一緒に床に座り、おもちゃで遊んだ。娘が嬉しそうに声を上げる。白嶺はそれを聞きながら、自分の内側を探った。甘い残り香は、もうほとんどない。
残虹はクローゼットの奥にある。
今日は、触らなくていい。
白嶺は彩華の髪に手を置き、小さく息を吐いた。
しばらくは、この普通が続く。それが、今はありがたかった。




