第27話「まとわりつくもの」
朝、白嶺は彩華の泣き声で目を覚ました。
いつもより反応が、半拍遅れる。起き上がり、ベビーベッドに手を伸ばすまでの動作が、滑らかでない。彩華を抱き上げた瞬間、胸の奥で甘いものがくすぐるように動いた。
『……おはよう』
声のトーンが、自分でもわずかに優しく聞こえる。意図していない。黄の侵食が、言葉の端に色をつけている。彩華は白嶺の顔を見て、少しだけ落ち着いた。白嶺はそのまま、離乳食の準備に入る。
スプーンを口に運ぶ動作が、丁寧すぎる。
「もっと優しくしなきゃ」という思考が、先に立ってしまう。赤のときの熱でも、橙のときの虚無でもない。まとわりつくような、甘い強制力だ。
(……やりすぎない)
自分にブレーキをかけながら、白嶺は彩華の口元を拭った。
会社では、美咲がすぐに気づいた。
「加藤さん、今日は……なんか、柔らかい感じがします」
『気のせいよ』
「でも、声とか、目とか。……いい意味で、ですよ?」
白嶺は短く「そう」とだけ返した。美咲の視線が、嬉しいもののように自分に吸いついてくるのがわかる。普段なら流せる距離感が、今日は少しだけ難しい。侵食が、他人の善意や好意を必要以上に拾ってしまう。
悠人が書類を持ってきたときも、同じだった。
「加藤さん、これで以上です」
『ありがとう。助かるわ』
自分でも、普段より言葉が多い。悠人は少しだけ目を細めて、軽く頭を下げた。白嶺は書類を受け取りながら、胸の奥の甘さを意識した。
(……早く、引いてくれ)
夜更け。
彩華を寝かしつけたあと、白嶺はソファに座り、自分の手を見た。
甘い残り香は、まだある。だが、朝よりは薄い。まとわりつき方が、少しだけ弱くなっている。
残虹には触れなかった。触る必要がないほど、次の色の気配は遠かった。
白嶺は目を閉じる。
優しさを欲しがる感覚と、優しさを与えすぎてしまう感覚が、同じ場所で混じっている。厄介だった。赤や橙より、性質が掴みにくい。
それでも、明日にはもう少し薄れているはずだ。
白嶺はそう判断して、電気を消した。
彩華の寝息が、部屋のどこかで続いている。
その音を頼りに、彼女は今夜を越えることにした。




