第24話「甘い気配」
美咲の視線は、その後も時折白嶺に向いた。
会議中、給湯室、廊下。気づくと目が合ってしまう。美咲はすぐに顔を赤くして視線を逸らす。白嶺は特に何も言わなかった。言わなくても、美咲の意識が自分に向いていることくらいはわかっている。悪い気はしなかった。ただ、それに応える必要も感じていなかった。
玲奈は相変わらず遠巻きに見ている。悠人は、必要なときだけ言葉をくれる。会社の空気は、いつもの均衡を保っていた。
退勤後、空が黄色く傾き始めていた。
白嶺は彩華を抱いたまま、駅前の広場を横切る。人々の足取りは普段と変わらない。だが、どこか甘い匂いが混じっている気がした。花のようで、蜜のようで、人の体温に近い匂いだ。
(……黄)
名前はまだ呼ばない。呼ばなくても、身体が反応している。胸の奥で、薄い何かが動いた。赤の熱でも、橙の沈みでもない。もっと、柔らかくて、甘い。
帰宅後、白嶺は彩華を床に下ろし、おもちゃを渡した。娘はそれを口に入れようとして、白嶺に取り上げられる。いつもの小さな攻防だ。白嶺はそれを一通り付き合ってから、夕食の準備に入った。
入浴は早めに済ませ、彩華が眠りに落ちるのを待った。今夜は絵本を読まない。読む気力が、少しだけ別のところに向いていた。
クローゼットを開ける。
黒い着物と、残虹の包み。白嶺は両方に手を触れた。
まだ、形にはなっていない。だが、近い。今夜か、明日の夜か。どちらかだ。
白嶺は着物を一旦戻し、残虹だけを膝に置いた。布の重みを確かめてから、静かに目を閉じる。
甘い気配が、窓の外から流れ込んでくる。
次の色が、もう街のどこかにいる。
白嶺は包みをクローゼットに戻し、電気を消した。
準備は、できている。
あとは、タイミングだけだった。




