第22話「上がったあと」
美咲は上がり框で靴を揃えながら、何度も視線を泳がせていた。
白嶺は特に着替える様子もなく、そのままキッチンに向かう。冷蔵庫から麦茶を出し、カップに注いで美咲の前に置いた。キャミソールの肩紐が、動くたびに少しずれる。美咲はそれを見ないようにして、焼き菓子の袋をテーブルに置いた。
「これ、差し入れです。つまらなくてすみません」
『気にしなくていいわ。ありがとう』
白嶺は短く礼を言って、ソファの端に腰を下ろした。美咲も向かい側に座る。姿勢が、どうしても硬い。
「……お子さん、もう少しで一歳なんですか?」
『十ヶ月。彩華』
「シングルで、育ててるんですね」
『ええ。父親は、もういないわ』
美咲は息を呑んだ。白嶺は特に暗い顔もせず、麦茶をすする。
「……大変じゃないですか? 一人で」
『大変よ。でも、やるしかないから』
「加藤さんって、会社ではすごく余裕があるように見えるんです。何でもできて、動じなくて。……本当は、そんなことないんですね」
白嶺は少しだけ目を細めた。
『見られてるのね、結構』
「み、見てます……。だって、加藤さん、綺麗だし、仕事できるし、近くにいると安心するし……」
美咲は自分で言ってから顔を赤くした。白嶺は短く「そう」とだけ返して、カップを置く。
「……一つ、聞いてもいいですか? 加藤さん、なぜ白髪なんですか。染めてるわけじゃないですよね」
白嶺は数秒、黙った。
『生まれつきよ。家の人間は、だいたいそう』
「家の、人……」
『親も、白い髪だった。それだけの話』
美咲はそれ以上聞かなかった。聞きたかったが、白嶺の声が、ごく僅かに遠いところを見ているように聞こえたからだ。
三十分ほど経った頃、白嶺が先に口を開いた。
『そろそろ、いい時間よ。彩華が起きる前に帰った方がいいわ』
「あ……はい。すみません、突然押しかけて」
美咲は立ち上がり、鞄を抱える。玄関まで送られるとき、白嶺の素足と、薄い生地の感触が、どうしても目に残った。
ドアの前で、白嶺がふと足を止めた。
『佐藤さん』
「は、はい」
『あたしに憧れてくれるのは嬉しいけど、あなたにはあなただけの素敵なところがたくさんあるわよ。あたしは、それもちゃんと見てるから』
美咲の目が、大きく見開かれた。
次の瞬間、顔がこれまで以上に赤くなり、うまく声が出なくなる。
「……か、加藤さん……」
『そろそろ、行きなさい』
白嶺は短く言って、ドアを開いた。
美咲は何度も頭を下げながら、廊下に出る。ドアが閉まる音を聞いたあと、彼女はその場でしばらく動けなくなった。
(……見られてる。加藤さんに、見られてる)
嬉しすぎて、胸が痛いくらいだった。
一方、部屋の中。
白嶺はテーブルに残ったカップを下げながら、小さく肩をすくめた。
美咲の反応は、予想通りで、予想以上だった。
彩華はまだ眠っている。
白嶺はベビーベッドの縁に手を置き、娘の寝顔を見た。
『……少し、話しすぎたかな』
誰にともなく呟いて、白嶺はキッチンに戻った。
キャミソールのまま、洗い物を始める。普通の、土曜日の午後の続きだった。




