第17話「沈んだ朝」
朝、白嶺はいつもより遅く目を覚ました。
彩華はすでに起きていて、ベビーベッドの中で小さな声を上げている。白嶺は天井を見たまま、数秒だけ動かなかった。体が重い。正確には、体ではなく、何かをしようとする意志の方が重い。
『……起きる』
自分に言い聞かせるように呟き、上体を起こす。彩華の元へ行き、抱き上げる。娘は白嶺の顔を見て、少しだけ笑った。白嶺も、合わせて口の端を上げる。うまく、笑えたかどうかはわからなかった。
離乳食を作りながら、ふと思う。
(……これをして、何になる)
思考が、沈んだ場所から浮かんでくる。赤のときのような熱はない。ただ、薄い布を一枚被せられたように、世界の輪郭が少しぼやける。白嶺は首を振り、その思考を押し込めた。
『しても、しなくても、今日は続く』
誰にともなく答えを出して、スプーンを取った。
会社では、美咲がすぐに気づいた。
「加藤さん、今日も少し元気がないですか? 無理してませんか?」
『大丈夫よ』
「本当に? 何かあったら言ってくださいね。私でよければ」
『……ありがとう。でも、大丈夫』
美咲は心配そうな目をしたまま、自分の席に戻っていく。白嶺は画面に向かった。指が、少しだけ遅れる。ミスをするほどではない。ただ、判断の一つひとつに、薄い抵抗がある。
悠人が書類を持ってきたのは、午後になってからだった。
「加藤さん、これで以上です」
『ありがとう』
「……顔色が、よくないです」
白嶺は書類を受け取り、顔を上げた。悠人の視線は、いつものように静かで、踏み込んでこない。
『気のせいよ』
「そうですか」
悠人はそれ以上何も言わず、軽く頭を下げる。白嶺は彼の背中を見送りながら、自分の内側の沈みを意識した。
(……どうせ、何をしても)
また、同じ思考がよぎる。白嶺は画面に目を戻し、それを無視した。
夜。
彩華を寝かしつけたあと、白嶺はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。
残虹はクローゼットの中にある。今日は、触らない。触る気力がない。
窓の外に、月が出ている。薄くて、遠い。
『……まだ、消えてない』
橙の沈みが、胸の奥でじっとしている。赤のときより静かで、気づきにくい。だからこそ、厄介だった。
白嶺は目を閉じた。
彩華の寝息が、小さなリズムを作っている。その音だけを頼りに、彼女は今夜を越えることにした。




