第14話「沈む色」
朝の白嶺は、比較的穏やかだった。
彩華は機嫌よく起きて、離乳食も残さず食べた。白嶺はそれを横目で見ながら、自分の内側を探る。赤い残香はもうない。代わりに、薄い、沈んだ何かが、胸の奥でじっとしている。昨日の夕暮れの続きだ。
会社では、美咲が朝から明るく声をかけてきた。
「加藤さん、おはようございます! 昨日はありがとうございました。少し楽になりました」
『無理に明るくしなくていいわよ』
「えへへ……でも、本当に助かりました。加藤さんにそう言ってもらえると、自信が戻ります」
白嶺は短く「そう」とだけ返して、自分の席に向かった。美咲の笑顔が、視界の端で続いている。悪くない、と思った。
玲奈は今日も遠くから見ているだけだった。都合がいい。
退勤後、空ははっきりと橙に傾いていた。
白嶺は彩華を抱いたまま、駅前の広場を横切る。人々の足取りが、どこか重い。笑顔が少ない。誰かがベンチに座ったまま、動かなくなっている。
白嶺は足を止めなかった。ただ、その「動かない」影が、自分の感覚に引っかかる。
(……近い)
帰宅後、彩華を寝かしつけるまでの時間を、白嶺はいつもより丁寧に使った。
入浴させ、髪を乾かし、小さい声で絵本を読んだ。彩華は途中で眠った。白嶺は本を閉じ、しばらくその顔を見ていた。
『……行ってくる』
誰にともなく呟き、部屋を出る前に、もう一度だけ娘の頭に手を置く。熱はない。穏やかな寝息だ。
黒い着物に袖を通し、残虹を帯びる。
鏡の中で、白髪が虹色の筋を帯びて落ちていく。
白嶺は部屋の電気を消し、ドアに手をかけた。
外は、すでに夜だった。
月は出ている。明るすぎない、沈んだ光。
色の気配は、はっきりと街の方から流れてきていた。
赤ではない。もっと、終わりに近い、甘いような、諦めたような色。
白嶺は残虹の柄に手を添え、静かに歩き出した。
今夜は、逢う。




