第13話「夕暮れの匂い」
美咲の表情が、朝から少し沈んでいた。
会議で指摘を受けたらしい。致命的なミスではない。ただ、美咲にとっては十分に大きなものだったようだ。昼休み、彼女は書類を抱えたまま、給湯室の前で立ち尽くしていた。
白嶺は缶コーヒーを買ってから、その横を通り過ぎかけ、足を止めた。
『落ち込むほどじゃないわ』
美咲が顔を上げる。目が少し赤い。
「でも、加藤さんならもっとうまくやれてたと思うと……」
『私と佐藤さんは違う。佐藤さんは、佐藤さんのやり方でいいの』
「……本当に、そう思えますか?」
『ええ。十分、できてるわよ』
美咲はしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。完全に晴れたわけではないが、肩の力が少し抜けたのはわかった。白嶺はそれ以上何も言わず、先に給湯室を出た。
後ろで、美咲が「ありがとうございます」と小さく呟くのが聞こえた。
退勤後、白嶺は彩華を迎えに行く途中、いつもの交差点で足を緩めた。
夕暮れだった。空が、橙に近い色に沈んでいる。
信号を待つ人々の横顔が、どれも少し疲れて見えた。誰かが小さく欠伸をし、誰かがスマートフォンの画面を見つめたまま動かない。
白嶺は、その「動かない」空気に、微かな違和感を覚えた。
昨日までの「遠い気配」が、今日は少し近い。
赤ではない。もっと、沈んだ、甘いような、終わりに近い色の匂いがする。
(……橙、か)
名前は、まだ呼ばない。呼ばなくても、身体が反応している。
彩華が保育園の入り口で手を振っているのが見えた。白嶺は意識をそちらへ戻し、歩を速めた。
今夜は、まだ出ない。
だが、明日か、明後日には、出ることになるだろう。
夜。
彩華を寝かしつけたあと、白嶺は残虹の包みを膝に置いた。
布を一枚だけ捲り、鞘の感触を確かめる。冷たい。
『……焦らない』
自分に言い聞かせる。
焦れば、また赤のときのように、余計な熱を残す。次は、もう少し静かに、正確にやる。
窓の外の月は、薄く雲がかかっていた。
それでも、色の気配は、昨日より確実に近くなっていた。
白嶺は布を戻し、包みをクローゼットに仕舞った。
電気を消し、布団に入る。
眠りにつく直前、夕暮れの匂いが、もう一度だけ鼻先を過った。




