第6話 孤高の魔導士クラリス
朝の光が差し込む安宿の個室で目を覚ました俺は、身支度を整えて東門へと向かった。
腰に帯びた新調の鉄の剣は、歩くたびに確かな重みと頼もしさを伝えてくる。
目指すのは、街の東に広がる地下迷宮――『初心者の迷宮』だ。
荷物持ち時代は他人のための三十キロの荷物を背負わされ、自分の意思でどこかへ行くことなど許されなかった。
だが今は、自分の力で稼いだ装備を身につけ、自分の足で前へ進んでいる。
腰の剣にそっと触れると、胸の奥からワクワクとした高揚感が込み上げてきた。
東門を出て街道を歩くこと約一時間。
なだらかな丘の麓に、ぽっかりと口を開けた巨大な石造りの洞窟――『初心者の迷宮』の入口が現れた。
迷宮の前に立つと、冷たい風が吹き上がってくる。
地上の始まりの森とは違う、濃密な魔力の気配が立ち込めていた。
冷たい石段を一歩ずつ降りて、地下へと足を踏み入れた。
第一階層は初心者が小鬼や角兎を狩るエリアだが、今のLv10の俺にとっては通過点に過ぎない。
俺は立ち止まることなく石畳の通路を進み、さらに強い魔物が徘徊する第二階層への階段を降りていった。
第二階層の通路を進んでいくと、前方の開けた空間から、獣の唸り声と空気を引き裂く激しい風切り音、そして鋭い金属音が響いてきた。
「風よ、切り裂きなさい――【風刃】!」
凛とした少女の声が反響する。
交戦中だと察した俺は、通路を駆け抜けて石造りの広大な十字路の入口へと出た。
広場の中央で戦っていたのは、一人の少女だった。
艶やかな白金色の長い髪を細い銀のリボンでハーフアップにまとめ、青と白の上質な魔導ローブを翻している。
その手には、先端に風の宝珠を嵌め込んだ細身の魔導杖が握られていた。
彼女を取り囲んでいたのは、灰色の毛並みと鋭い牙を持つ大型の魔物――Eランクの牙狼三頭だった。
牙狼は低い唸り声を上げ、少女の詠唱の隙を狙って左右から間合いを詰めていく。
少女は魔導杖を構え、正確無比な【風刃】を放って牽制しているが、三頭同時に襲いかかる俊敏な前衛を一人で抑え込むのは明らかに限界があった。
さらに広場の天井付近の梁には、赤黒い八本脚の巨体――Eランクの大蜘蛛が潜んでいた。
少女は一瞬の隙を突いて渾身の魔力を魔導杖へ込めた。
「吹き荒れなさい――っ!」
放たれた鋭利な【風刃】が、正面から飛びかかった牙狼の首筋を正確無比に捉えた。
ギャンッ、と短い悲鳴を上げて牙狼が一頭、絶命して床へ倒れ込む。
その身体から、淡い霊質の光がふわりと立ち上った。
だが――。
「しまいましたわ……!?」
天井の大蜘蛛が音もなく吐き出した粘着糸が、少女の魔導ローブの裾を石畳へベッタリと縫い止めた。
体勢を崩したところへ、残る二頭の牙狼が左右から同時に跳びかかる。
剥き出しの鋭い牙が、少女の喉元へと迫る。
この距離なら間に合う――俺は足腰に魔力を巡らせ、【身体強化】と【瞬歩】を同時に発動した。
ダンッ!
足元の石畳を爆ぜるように蹴り抜くと、景色が一瞬で後方へ吹き飛んだ。
空間を飛び越えるように加速し、牙狼の牙が少女に届く寸前、俺はその眼前へと割り込んでいた。
新調した鉄の剣を腰の鞘から一気に抜き放ち、横薙ぎに一閃した。
ズバァッ!
鋭い切先が牙狼の胴体を捉え、骨も肉もまとめて両断した。
使い古した短剣とはまるで違う、刃の確かな重みと切れ味が掌に伝わってきた。
(やっぱり、ちゃんとした武器だと全然違うな……!)
真っ二つになった牙狼が床へ転がると同時に、その死体から青白い霊質の光が爆発するように噴き上がった。
少女が倒した牙狼から立ち上った淡い光とは比べ物にならない、視界を青く染め上げるほどの膨大な奔流だ。
天賦スキル【経験値×100】の百倍の光が、激流となって俺の胸元へと吸い込まれていく。
熱い霊質が全身を満たす確かな感触を受け止めながら、俺は流れるように身体を反転させた。
両断した反動を利用して鋭く旋回し、右側から迫っていた二頭目の牙狼の首へ刃を走らせた。
ヒュンッ――ドシュッ!
床へ落ちた牙狼の死体からも、青白い光の奔流が立ち上る。
さらに俺は踏み込み、天井から落ちてこようとしていた大蜘蛛の眉間へ、片手突きを一直線に繰り出した。
鋭い切先が、硬い外殻を深々と刺し貫いた。
嫌な音を立てて絶命した大蜘蛛がドサリと床へ落ち、その巨体からも膨大な光が噴き出した。
時間にして、わずか二秒足らず。
牙狼二頭と大蜘蛛を、一瞬のうちに殲滅していた。
俺は剣先を翻し、少女の裾を縫い止めていた粘着糸を切り裂いた。
そして、その場にへたり込んでいた少女へ右手を差し伸べた。
「怪我はないか? 間に合ってよかった」
少女は魔導杖を握りしめたまま肩で息を乱し、丸く見開いた碧眼で、俺の顔と床の死体を交互に見つめて呆然と固まっていた。
やがて、震える唇から小さな声が漏れ出た。
「……嘘……ですわよね?」
「え?」
「あんな俊敏な牙狼と大蜘蛛を……たった一人で、瞬く間に……!? それに、今の光は……?」
少女は信じられないものを見たように目を丸くして絶句し、俺の胸元を見つめた。
倒した魔物から立ち上った、あの異常な光量に戸惑いを隠せないようだった。
だが、スキルの詳細をここでわざわざ説明する理由はない。
「……怪我がないならよかった。ここはまだ通路の真ん中だ。安全な場所へ移動しよう」
少女は差し出された俺の手を一瞬見つめて躊躇ったものの、気丈に意地を張るようにして自力で立ち上がった。
俺は小さく苦笑しながら手を引っ込め、周囲を見回した。
「あ、ありがとうございます……」
倒した牙狼と大蜘蛛の死体から手早く魔石をくり抜いたあと、俺たちは通路の脇にある小さな安全地帯の小部屋へ移動した。
重い扉を閉めると、迷宮の喧騒が遠のき、静かな空間が広がる。
少女は衣服の汚れを手で払い、呼吸を整えると、背筋をピンと伸ばして俺に向き直った。
その立ち居振る舞いには、育ちの良さを感じさせる気品が漂っている。
「……失礼いたしました。助けていただき、心より感謝いたしますわ。私はクラリス。見ての通りの魔導士です」
丁寧な一礼とともに、凛とした声で自己紹介をしてくれた。
「ああ、無事でよかった。俺はエルン。Eランクのソロ冒険者だ」
「……E、ランク……? あの実力で……?」
クラリスは気品を保とうとしながらも、信じられないというように目を丸くした。
「ああ、昨日上がったばかりなんだ。それより、クラリスの風魔法、凄かったよ。牙狼を一撃で仕留めた風刃、すごく速くて正確だった」
「えっ……?」
「通路の入口から見えたんだ。あの距離と角度から、俊敏な牙狼の急所を的確に撃ち抜くなんて、相当な腕前がないとできないはずだ」
実技を見た通りの率直な感想を伝えると、クラリスの白い頬が微かに赤らんだ。
「そ、それは……当然の嗜みですわ。ですが、正当に評価していただけるのは……その、悪くありませんわね」
少し誇らしげに胸を張りつつも、気恥ずかしそうに視線を泳がせる。
俺一人でも戦えるが、あの正確な風刃があれば、より深く、もっと先まで踏み込めるはずだ。
「クラリス、提案があるんだ」
「提案、ですの?」
「俺は前に出て敵を抑えられる。後ろを頼みたい。……俺とパーティを組まないか?」
まっすぐに目を見て告げると、クラリスは息を呑んだ。
「パーティを……?」
クラリスは手元の魔導杖をぎゅっと握りしめ、少し唇を尖らせた。
「……本来なら、私一人で踏破してみせる所存でしたわ」
そう呟いたクラリスは、先ほどの戦いを思い返すように一度手元の杖へ視線を落とした。そして小さく息を吸い込むと、迷いを振り切るように顔を上げ、凛とした瞳で俺をまっすぐ見据えた。
「……アルスタ――……いえ、私の名にかけて、当面、貴方の後ろは私が引き受けますわ」
滑りそうになった家名を慌てて飲み込み、クラリスはどこか誇らしげに、けれど少し上ずった声で右手を差し出してきた。
「よろしく頼むよ、クラリス」
俺がその小さな手を握り返すと、クラリスは気品ある笑みを浮かべた。
こうして、俺とクラリスは前衛と後衛のパーティとして、初心者の迷宮のさらに奥へと歩み始めた。




