第2話 初討伐と百倍の真価
「当たれえっ……!」
喉から絞り出すように叫びながら、俺は頭上に構えた短剣を渾身の力で振り下ろした。
魔力を筋肉に巡らせ、通常スキル【身体強化】を発動する。
目の前には、赤茶色の毛に覆われた丸々とした身体と、額から突き出た鋭い一本の角があった。
初心者向けの狩り場「始まりの森」に生息するFランク魔物、角兎だ。
甲高い威嚇の声を上げながら、一直線に突進してくる。
狙いは俺の腹だ。
かつての荷物持ち時代なら、背中に三十キロを超える重荷を背負っていたせいで、避けることすらままならずに立ちすくんでいただろう。
だが、今の俺に重い荷物はない。
激突の直前、俺は身体をわずかに横へとひねった。
突き出された角の先端が、使い古された革鎧の脇をかすめる。
ガリッと鈍い感触とともに、鋭い痛みが走った。だが身体を回したことで、角の突進力を革の表面で浅く受け流せた。
「ぐっ……!」
荷物持ちの下積みで鍛え上げてきた足腰にぐっと力を込め、俺は地面を強く踏んで踏みとどまった。
振り下ろしの勢いは絶対に止めない。
身を流した体勢のまま、全体重と、筋肉に巡らせた【身体強化】の力を乗せて、一気に押し込む。
短剣の切っ先が、角兎の首筋に深く刺さった。
硬い毛皮と肉を断ち切る生々しい手応えが、柄を通じて両手に伝わる。
ギャッと短い悲鳴を上げ、角兎の突進がピタリと止まった。
俺はそのまま体重を預けて地面へ押し倒した。
小さく手足を痙攣させたあと、角兎の身体からふっと力が抜け、動かなくなった。
静まり返った森の中に、俺の荒い息遣いだけが響く。
「はぁ、はぁ……っ、はぁ……」
短剣を握りしめた両手が、激しい緊張で小刻みに震えていた。
踏ん張った太ももは鉛のように重く、革鎧をかすめた脇腹にはじんじんと浅い痛みが残っている。
格好いい戦い方なんて何一つない。泥臭く、必死にしがみついた初めての戦いだった。
地面に倒れ伏してピクリとも動かない魔物の姿を、俺は何度も瞬きしながら見つめた。
「はぁ、はぁ……た、倒した……のか……? 俺一人で……!」
誰かの指示に従ったわけじゃない。自分の手で仕留めたんだ。
荒い息を吐き出しながら、胸の奥から熱い達成感と安堵がじわじわと込み上げてきた。
動かなくなった角兎から、ふわりと青白い光の粒子が立ち上り始めた。
魔物を討伐したときに現れる、経験値――『霊質』の光だ。
だが、その光の量が明らかにおかしかった。
荷物持ちとしてパーティの後ろから眺めていた光は、指先ほどの淡い粒が頼りなく数粒立ち上るだけだった。
しかし、目の前の角兎から吹き出したのは、そんなささやかなものじゃない。
ブワッと青白い光が大きく膨れ上がり、激しい奔流となって渦を巻いた。
視界を埋め尽くすほどの光の筋が、一直線に俺の胸元へと吸い込まれていく。
「な、なんだこの光の量は……!? 体の中に、すごい勢いで流れ込んでくる……!」
熱い奔流が体内へ注ぎ込まれ、俺は息を呑んで立ちすくんだ。
確かめに来たスキルの影響なのかと、激しい動揺が胸を打つ。
その瞬間、頭の中にカチリと澄んだ音が響くように、意識へ直接ステータスの情報が流れ込んできた。
脳裏に浮かび上がる文字と数値が、猛烈な勢いで連鎖していく。
――――――――――――――――
【レベルアップ】
エルン:Lv1 → Lv5
HP:10 → 26
MP:8 → 24
腕力:4 → 20
体力:4 → 20
敏捷:5 → 21
魔力:3 → 19
――――――――――――――――
「レベルが……二、三、四……五!? 数値が、信じられないくらい跳ね上がってる……!?」
止まらない連鎖に呑まれ、声が裏返りそうになった。
たった一匹倒しただけで、四回ものレベルアップが次々に押し寄せてきたのだ。
貧弱だったはずの初期値が、一気に数倍へと跳ね上がっていく。
驚きは、数値の変動だけじゃなかった。
最後のレベルアップと同時に、身体の芯から清涼感が全身を駆け巡った。
レベルアップに伴う『全回復』の効果だ。
「えっ……」
先ほどまで肩で息をしていたのが、嘘のようにピタリと収まった。
緊張で震えていた指先も、重だるかった足腰の疲労も、綺麗さっぱり消え去っていた。
それどころか、角兎の角がかすめてじんじんと痛んでいた脇腹の擦り傷すら、完全に塞がっていた。
痛みも、疲労も、何一つ残っていなかった。
「嘘だろ……全身の痛みが、全部消えた……?」
自分の手首や脇腹に触れて確かめてみる。
傷跡一つなく、完璧な状態に戻っていた。
身体の内側で起きている変化は、それだけではなかった。
さっきまで必死に振り下ろしていた鉄の短剣が、まるで羽のように軽く感じられる。
呼吸をするたびに、肺の奥深くまで澄んだ空気がたっぷりと通り抜けていく。
草木が擦れ合う音も、葉のざわめきも、湿った土や草の匂いも、以前よりはっきり分かった。五感のすべてが、驚くほど鮮明に研ぎ澄まされていた。
俺は手にした短剣を、その場で軽く一閃してみた。
ヒュンッ!
鋭く空気を引き裂く風切り音が響く。
軽く腕を振るっただけなのに、以前とは比べ物にならない速度と力強さで刃が軌道を描いた。
「すごい……これが、Lv5の力なのか……!」
自分の身体でありながら、まるで別物のように力がみなぎっている。
確かな力の充実に、背筋が震えた。
俺はふと我に返り、足元に倒れている角兎へ視線を落とした。
染み付いた手癖が身体を動かす。角を素早く外して腰帯に差し、小さな魔石を取り出してポケットへ放り込む。
一連の回収を、流れるように数秒で済ませた。
立ち上がり、ポケットの中の小さな魔石と、腰に差した角の感触を確かめた。
光と数値の激しい衝撃が引いていくにつれて、数に呑まれていた意識が、ようやく追いついてきた。
角兎を一匹倒しただけで、Lv1からLv5まで四段階も跳ね上がった。
その事実の意味が、遅れて頭の中でつながった。
あの神授の儀の日、青く輝くステータス水晶に浮かんでいた文字列。
神官は「必要経験値が百倍になる最悪の呪い」だと決めつけ、ラウルたちも「一生レベルの上がらない無能」と嘲笑った。
「……やっぱり、呪いじゃなかった。水晶に『必要経験値』なんて、書いてなかった。……獲得する経験値が、百倍だったんだ」
思わず口元が緩んだ。
疑いが、確信に変わった。
俺の天賦スキル【経験値×100】は、足枷などではない。
誰にも認められず、無能だと罵られ、荷物持ちとして使い捨てにされたあの日々の意味が、この一瞬でひっくり返った。
自分の手で掴み取った確かな成長と、呪いではなかったという深い安堵が、胸を温かく満たしていく。
「あいつらの言う通りになんて、なるもんか。俺は……自分の力で、ちゃんと強くなれる」
短剣を握る手に、自然と力がこもった。
角兎一匹でLv5だ。
普通なら何十匹、何百匹と倒さなければ届かない領域に、たったの一撃で到達してしまった。
「たった一匹でこれなら、もっと倒せばどこまで強くなれるんだ……!? よし、次だ!」
胸の中で、強烈なワクワクが込み上げ、次へ向かう衝動に火がついた。
気持ちを切り替え、俺は地面を強く蹴って、始まりの森の奥へと勢いよく駆け出した。
風を切って木々の間を疾走する。
Lv5の脚力は圧倒的で、木の根や下草を軽々と跳び越えていく。
走っている最中、ふと微かな違和感が頭をよぎった。
――獲得経験値が百倍。こんな常識外れの力は普通じゃない。
だが、湧き上がった疑問を俺はすぐに振り払った。今は深く考えて立ち止まっている場合じゃない。もっと倒すんだ。
そのとき、研ぎ澄まされた五感が、周囲のわずかな変化を敏感に捉えた。
十メートルほど先の茂みから、カサリと草が擦れ合う音がした。
風に乗って、獣特有の匂いも漂ってくる。
木漏れ日の向こうに、二つ、いや三つの気配が潜んでいるのがわかった。
さっきまでの俺なら絶対に気づけなかった気配が、手に取るように把握できた。
「……いたぞ。しかも複数か」
口元に自然と笑みが浮かぶ。
全身にみなぎる力と、更なる成長への期待で、走る脚が止まらない。
俺は短剣を構え直し、獲物の待つ草むらへ向けて一気に加速した。




