第74話『試薬』
エルザの研究室を後にした翌朝、『クローバー』は再び竜の穴へと足を運んでいた。目指すのは、以前よりも瘴気の濃度が高いとされる中層エリアだ。
「よし、まずはこれを飲んでおくか」
啓太は懐から、エルザに渡された小瓶を取り出した。中には、うっすらと青みがかった液体が揺れている。
「本当に効くんでしょうか、それ」
リーネが不安げに小瓶を覗き込む。
「試作段階って言ってたが、エルザさんが作ったものだ。とりあえず飲んでみよう。何かあったらすぐに言ってくれ」
啓太が一口含むと、喉の奥にピリッとした刺激が走った。薬草特有の苦みの中に、微かな清涼感がある。
「……ん、悪くない。少し体が軽くなった気がするな」
「私たちも飲んでおく?」
シルフィの問いに、啓太は頷いた。
「ああ、頼む。瘴気の濃いエリアに入る前に、全員で試しておきたい」
四人は順番に小瓶の中身を口にした。ルナだけは一瞬顔をしかめたが、すぐに気を取り直したように剣の柄に手をかけた。
「にがっ……! だが、確かにちょっと頭がスッキリするな。これが瘴気耐性ってやつか」
「効果のほどは、実際に瘴気の中に入ってみないと分からないけどな」
啓太たちは慎重に足を進めた。中層に近づくにつれ、空気が徐々に重く、湿ったものに変わっていく。壁面には、これまで見たことのない紫がかった苔のようなものがびっしりと広がっていた。
「気持ち悪いですぅ……この苔、なんだか嫌な感じがしますぅ」
リーネが杖を握りしめながら顔をしかめる。
「エルザさんの資料にあった、瘴気が凝縮した場所の特徴と一致するな。この辺りが、検体を集めるのに向いてそうだ」
啓太が慎重に周囲を観察していると、通路の奥から不気味な羽音が響いてきた。
「来るぞ、構えろ!」
姿を現したのは、以前遭遇した瘴気コウモリよりも一回り大きい個体だった。全身を覆う紫色の靄が、より濃く渦を巻いている。
「シルフィ、援護を頼む! リーネは後方から! ルナは前衛で防御を!」
啓太の指示に、それぞれが即座に動いた。シルフィの放った矢が正確にコウモリの翼を捉える。
「キシャアアアッ!」
甲高い鳴き声とともに、コウモリが瘴気の靄を撒き散らしながら急降下してきた。ルナが剣を構えて前に出る。
「オラァッ!」
斬撃が命中し、コウモリの体が大きく傾く。だが、致命傷には至らない。それどころか、瘴気の靄がルナの周囲にまとわりつき始めた。
「ルナ、大丈夫か!」
「ぐっ……なんか、体が重く……」
いつもなら軽々と避けられる攻撃にも、ルナの動きが微妙に鈍っている。啓太は素早く判断した。
「リーネ、頼む! 一気に決めよう!」
「はいですぅ! 【爆炎球】!」
リーネの放った火球が、瘴気コウモリを正確に捉えた。爆発とともに、紫色の靄が霧散していく。
「やった……のか?」
「ああ、討伐完了だ。ルナ、体の調子はどうだ?」
啓太がすぐに駆け寄ると、ルナは深呼吸をしながら答えた。
「ちょっと重かったが、思ったより軽い感じだ。前に瘴気を浴びた時とは、明らかに違う」
「試薬、効いてるみたいだな。良かった」
啓太は安堵の息をつきながら、討伐した魔物から結晶を採取した。以前のものよりも、明らかに色濃く、内部の光も激しく揺れている。
「この結晶、前のよりずっと濃いですね」
シルフィが手のひらに乗せた結晶を、光にかざしながら呟く。
「奥に進むほど、瘴気は強くなるって言ってたもんな……」
リーネが不安げにそう言うと、啓太は静かに頷いた。
「ああ。だが、確実に情報は集まっている。今日採れた検体は、エルザさんにとって大きな手がかりになるはずだ」
その後も四人は慎重に周囲を探索し、瘴気を帯びた魔物を複数討伐しながら検体を集めていった。試薬の効果もあってか、大きな怪我を負うこともなく、探索は順調に進んでいく。
やがて、一同はある異変に気づいた。通路の奥、これまで足を踏み入れたことのない一角に、先ほどまでとは比較にならないほど濃い紫の靄が立ち込めていたのだ。
「……あれは」
啓太が目を凝らすと、靄の奥にぼんやりと、何か巨大な影が蠢いているのが見えた。
「まさか、あれが……」
ルナが息を呑む。リーネはとっさに啓太の後ろに隠れた。
「いや、落ち着け。あれはまだ遠い。今日はここまでにしておこう」
啓太は油断なく影を見据えながら、静かに後退を指示した。だが、その脳裏には確かな予感があった。
瘴気の源――その本体は、思っていたよりずっと近くに潜んでいるのかもしれない。
「今日の成果は、間違いなく大きな一歩だ。だが、ここから先は、これまで以上に慎重にいかないとな」
啓太の言葉に、三人は静かに頷いた。
薄暗い通路を戻りながら、啓太は懐の結晶の重みを、いつもより強く感じていた。




