第8話 余った一席
掲示板の前から人が引くのを、待っていた。人だかりに混じって紙を読む役は、ほかの方にお譲りいたしますわ。
終業の鐘のあとに貼られた紙が、まだ人を集めている。硬い字で、いつつ。警戒態勢。門限。届出。学園衛士との協同。
——それから、末のひとつ。
一、右の務めのため、本年度、生徒会に新たに三名を加える。名は、下に掲げる。
三名。例年は、二名。
新入生の席は、ふたつ。学園で教わったのではない。頁に、そう書いてある。この手の紙は、いつもなら答え合わせで済むのだ。
……今日は、答え合わせに、ならなかった。
紙の下に、名前がみっつ。上のふたつは、読むまでもなく知っている。
いちばん上が、ただひとりの聖女。
その下に、騎士団長の息子。
頁の本年の二席は、そのふたり。ヒロインと、その隣に立つ男。
ただし、入り方が違う。
頁のあのふたりは、成績と、家格と、脚本の都合で招かれる。
紙のこのふたりは、「右の務めのため」に招かれている。
同じ椅子。座らせる理由が、別。
そして、みっつ目。
どの日付をめくっても、どの余白を裏返しても、頁には出てこない名前。
余った一席が——私。
頁が、形を変えたのだろうか。
いいえ。変形というのは、書いてあるものが崩れること。頁にない席を、変形とは呼ばない。
では、書き直し。頁は、書き直されることがある。それは、知っている。
……けれど、書き直しは、結果を書き替えるもの。誰が死ぬか、その行を差し替えるもののはず。
なかった椅子を、ひとつ、足すもの?
……判らない。
判らないまま、書けることだけ書いておく。
これは、招かれた席。取りに行った席ではない。紙のほうが勝手に、みっつ目にわたくしを置いたのだ。
書いておいても、落ち着きはしない。
頁の外に、わたくしの席がある。
日付の外で点いた火なら、これまでいくつも消してきた。頁にない火は、摘めば消える。
——では、この席は。降りれば、消えるのかしら。
紙は、答えない。
……そういえば。
ああいう日の翌朝、あの子はよく笑う。よく笑って、よく食べて、よく走る。
今朝は、どれも見なかった。
頁の因果ではない。わたくしが勝手に決めていた一行が、外れただけだ。
……気になる。
***
ひと晩置いても、みっつ目の名は消えなかった。
翌日の昼。生徒会室の卓は、長い。
わたくしの席は、扉にいちばん近い、手前の端。
向こうの端が、上座。あの男。
右の列は、手前にあの子。その隣が、空いている。騎士団長の息子は、今日も騎士団の御用だとか。……二日、続けて。
左の列は、奥にあの学者。
椅子はむっつ、座る者は五人。むっつ目は、あの子の真向かい——誰の名もない一脚。
あの子が顔を上げるたび、目に入る席。
座ろうと思えば、座れた。
わたくしは、扉際のほうを取った。
数えておく。上座まで六歩。あの学者まで五歩。
あの子まで——三歩。真向かいの空席も、三歩。
物陰から日なたへ出るのに、騎士団長の息子が要した歩数と、同じ。……近くて、動かせない三歩ですこと。
この部屋がなんであるかは、頁を引くまでもない。あのふたりを近づけるための装置。
この卓に悪役令嬢が座れば、それは障害物。障害物は、燃料になる。
邪魔をしなければ、しなかったという事実が、頁からずれる。
検分表の裏に、一行。
——この部屋、装置。用途、距離を詰めること。着席者、わたくし。……部品として、可。
指で、卓の縁の寸法をなぞる。扇は、開かない。
鐘楼の上にも、屋根の上にも、フードがあった。ここには、それがない。
同じ灯りのなかで息をする席。見るだけの側では、いられない。……座り心地が悪い。
あの男が、卓の紙を一枚めくる。
「巡回の組を決める前に、確かめる。学園衛士は、どこに何人置いた。門、寮の裏手、渡り廊下——誰が持つ」
答えたのは、あの学者。
「門と寮の裏手には立っております。渡り廊下は、まだ誰も。王都の衛兵にも写しは回っておりますが、読んでいるかどうかは、また別のお話で」
あの男が、短く。
「読ませろ。——読んだ者の名を、取れ。『回した』と『読まれた』は、別の欄だ」
紙が、次の一枚になる。
「生徒会の務めを、三つ」
夜の見回りは二人組。届けの窓口はこの部屋で、上がったものは全部あの男が読む。
……耳を貸しておけばいい。窓口が動いても、わたくしの帳面の行は動かない。
「三つ目。騎士団が学園の周りと街区の視察に入る。それに、生徒会から随行する。この卓が負う務めだ。実務であり、同時に、訓練でもある。——組は、見回りと随行の両方を持つ。二種は作らない。組分けは、このあと決める」
随行。……あの子を、学園の外へ出す務め。
本来なら、貴族の子弟の務め。その言葉だけが、卓に置かれなかった。拾う者が、ここに座っている。
あの男が、一度、卓を見渡した。
「街の出の生徒に、目が向いている。学年も組も跨いで、同じ濃さでだ。理由は調べさせた。誰も答えなかった」
「理由の出ない敵意は、質が悪い。理由が出れば、正すか、退けるかができる。出ないものは、ただ、育つ」
「その目に気づいた者は、届けろ。——『言われるだけ』は、この卓では、届けの理由になる」
……昼のわたくしの仕事に、値がついた。出す者がいれば、の話だ。
あの子の指が、卓の上でひとつ動いた。あの男は、見ずに、割り当てを言う。
「今夜は二組で回る。私とマリア。カイルとオフィーリア」
——あの男が、あの子の名を、軽く呼んだ。
配役の紙を読み上げるみたいに、平らな声で、躊躇いのひとつも挟まずに。
あの男は、そうやって呼んでいい男だ。断りも要らず、代償も要らず。
あの子の息が、途中で止まった。すぐ吸って、急いで、噛んだ。腰が少し浮いて、座り直した。
「は、はいっ」
……なにに驚いたのかは、わたくしには判らない。
あの男が、続ける。
「ジークハルトが戻り次第、三組へ組み直す。五人では、三組に足りない。衛士を一名ずつ付けて、埋める。戻る日のわからないものを先に紙へ書いても、書き直すだけだ」
あの子の目が、隣の空席へ行って、戻った。それから卓の向こうを見て、すぐ下げた。膝の上で、両手を組んだ。
「……あの」
「灯りは、私が持ちます。あと、その、水も。祭服の下に、包帯も、入れてまいります」
間があった。
「殿下。……私は、前には、出られません。お守りいただく側に、なります。ですから、あの、」
そこで、切れた。
「……いえ」
「務めます」
辞退しかけて、しなかった。
出かかったものを自分で仕舞う手つきは、まだ拙い。拙いから、全部見えた。
組を決めたのは、あの男。そこに、わたくしを狙った指は一本もない。
仕組まれたものなら、仕組んだ手を探せばいい。悪意のない割り振りには、探る先がない。……だからこそ、質が悪い。
妬いてみせるのが、頁どおり。
妬心は、本物。ただし向きが、逆。世界はそれを、都合よく誤読する。……いつものこと。
扇を開いて、二度あおいだ。令嬢の妬心として、ちょうどよく読める速さで。
扇の陰で、目だけ働かせておく。
上座は、いま向き合う相手ではない。あの男の番は、最後の頁。頁のとおりに、最後まで、大事に取ってある。
左列の奥、五歩。今夜の相方は、あの学者。
検分表に、行はまだない。立てるなら、最初の行は——目、可。
よく見る目は、守りには利く。並んで歩くには、厄介だ。
……観察は、して差し上げる側ですわ。
あの子の隣の空席を、もう一度見る。二度目が、長い。
検分表に三行ある男の席だ。位置、可。勘、可。腕、可。
昨日までなら、喜んだところだ。いないほうが、あの子の隣が空く。
今日は、喜べない。
日なたの守りは、留守。
騎士団を二日も走らせる用が、あの夜のほかにあるかしら。
卓の下で、指が数を数えていた。四十七まで数えて、やめた。
あの男が、卓の紙を伏せた。
「もうひとつ。街の薬と、食糧のながれを知りたい。先月まで、どこで、いくらで、誰の手を通っていた。いまは、どうなっている」
「マリア。見たものを、この場で」
あの子の体が、立った。
祭服の袖の中で、右手が左の手首を握っている。……押さえておかないと、指が動くのだろう。
「……はい。列が、一日で、長くなりました」
「持ってまいりましたパンは、その日のうちに、無くなりました。……足りませんでした」
「五つくらいの女の子が、パンの切れ端を、握っていました。かじっては、いませんでした」
……その子なら、知っている。かじりもしないで、両手で握ったままだった。渡したのは、あの子の手だ。
「病は、和らげることしか、できません。薬でなければ、治りません」
そこで、一度、止まった。膝の裏に、力が入っている。……倒れると、いちばん高くつく。
「値段も、誰の手を通っていたかも、いまが、どうなっているかも——わかりません。昨日から、街に、行っておりませんので」
声が、途切れた。
「……失礼、しました」
「……続けます」
あの男が、止めた。
「——見た分は、取れた。残りは、こちらの仕事だ。座れ」
あの子が、座った。
律儀な報告。見たものだけ、数えたものだけ。繋がりは口にしない。訊かれたのは、見たものだから。
体のほうは、漏れている。
……そして、古い。その値も、その店も、もうない。棚は空で、戸は閉じたまま。ふた晩前から。
あの塀の内を仕舞えば、流れていたものは止まる。当たり前の順序だ。
その先に、空の棚が並ぶ。片づけるのは、始末をつけた者の手。
——止まると、判っていた。止めるつもりも、あった。
棚が空けば、人は手を伸ばす。その手の届くところに立つ者の役なら、頁に、もう書いてある。空いているのなら、座っておけばいい。
今夜の帳面に、足す行はない。
あの学者が、こちらを見た。紙を繰るついでの目——のはずが、繰る手のほうが先に止まった。
……いつもは、目のほうが、ついでだった。
あの子の目も、卓のほうを向いたまま、半分だけ、こちらに残っている。
見られる側の椅子は、こういう座り心地だ。
最後に、あの男が言った。
「請願の返答は、まだ来ていない。期限は、あと四日だ」
あの子が、膝の上で、指を強く握った。
あと、四日。
あの子が、その数を数えはじめたらしい。
具申は、通るだろう。通っても、棚は空のままだ。
数を数えるのは、こちらの仕事だ。あの子の仕事ではない。
めいめいが、席を立つ。
わたくしは、まだ降りていない。
この席を、望んだ覚えはない。頁の外から、置かれた。
だから、扉のそばを取った。取ったときは、いつでも降りられる、それだけの椅子だった。
ひと巡り、測った。
頁にない火は、全部この手で片がついている。席だけが例外という道理は、ない。
降りれば消えるのか、と昨日、訊いた。問いのほうが、古くなった。
降りない。
検分表の一行を、書き直す。
——この席、可。
あの子まで、三歩。
座るかぎり、毎日、三歩。
渡れる。誰も咎めない。渡らないと決めているのは、私だ。
——渡れる距離であることが、罰なのだ。渡れないなら、こんなに痛くない。
今日は、渡らない。あの子の真向かいの一脚にも、着かない。順序が、ある。
私の席は、扉にいちばん近い。
——だから、あの子のほうから来る。
三歩が、一歩に。半歩に。
伏せた睫毛。首筋の後れ毛——今朝は、結い直していない。……急いだのだ。誰のために。
私のためではない。判っている。それでも、構わない。
半歩のあいだ、私は世界でいちばん幸福な帳簿係だ。
——過ぎた。
名前が、喉まで出た。
……いや。まだだ。




