第9話 もう、くださらないでください
頁は、朝のうちに引いてある。
西の渡り廊下、日の傾くころ。
給費生の娘が、生まれた場所を理由に絡まれる。あの子が割って入る。ふたりの距離が、縮む。
——それだけの、小さな行。
頁のなかの、明るい行。あの子に、味方がひとり増える行。
……見に行かない理由が、ない。
渡り廊下の中ほどに、絹の袖が四人。囲みの形になっている。
声は荒げない。この方たちは、荒げなくても届く場所に生まれている。
「ああいう街からいらした方は、ものの考えかたも、そちらの流儀なのでしょうね」
「先だっての騒ぎも、もとを辿れば……ねえ」
言葉だけ。手も、物も、動かない。
……見覚えのある、やり口。手さえ出さなければ、届けの紙は一枚も上がらない。
——昼までの、話。いまは「言われるだけ」でも、届けは通る。あの卓で、値がついたばかり。
出せることと、出ることは、別。……出す者は、この廊下に、いない。
このやり口を、わたくしはふた通りに知っている。
ひとつ。昼のわたくしが、毎日やっているもの。
ふたつ。もっと前に。袖が絹でなかったころ、囲まれていたのは、こちらの側だった。
……あのとき、人垣を割って入ってきた向こう見ずがいる。割って入って、代わりに、支払った。
わたくしは「はず」を、あの子に賭けない。だからこの形の続きが、最後まで見えている。
給費生の娘は、顔を上げない。壁ぎわへ、半歩。
——あの子が、来た。
廊下の端から、まっすぐ。囲みと娘のあいだへ、体ごと。
あの子が前に立った瞬間、娘が、半歩、下がった。
……逃げ道が、一本、減った。
あの子は、気づいていた。気づいたまま、体はもう振り向いている。そして、頭を下げた。深く。
「……あ」
「ご、ごめんなさい」
「……あの。この方は、関係が、ありません」
「街のことでしたら、行ったのは、私です。騒ぎのときも、そこにいたのは、私です」
「言うのでしたら、……わ、私に、言ってください」
娘が、首を横に振る。
「……大丈夫です、マリア様」
「慣れておりますので」
——マリア様。
一音。距離が、一段。
鐘楼の下では、この娘はあの子を「さん」で呼んでいた。書き換えた手なら、さっきそこで見た。絹の袖が、娘の口のなかに手を入れて、直していったのだ。あなたが、その名を、そう呼ぶ身分か、と。
手も物も出さずに、呼び方だけを持って行く。なにも残らない手口の、残ったものがこれ。
今日から、この娘は感謝を敬語で包む。包まれた感謝は、届かない。
わたくしは、あの子の名を、一度も呼んでいない。「あの子」で足りているのではなくて、とってあるだけ。
だから、誰かが軽々と呼ぶたび、腹が立つ。様も、さんも、わたくしが持っていない呼びかた。
絹の袖が、顔を見合わせる。
——そこから先が、頁と違った。
給費生の娘が、顔を上げた。息を一度、吸って。上着の上から、胸のあたりを押さえて。
「マリア様。……お礼を、申し上げなければなりません」
礼。囲まれている最中に。……なんの、順番だろう。
娘は、数えはじめた。
生徒会へ連れて行ってもらったこと。——娘の手が、胸を押さえたまま、力を増す。
街まで来てくれたこと。——娘の息継ぎが、浅くなる。
日暮れまでの祈り。——娘のまばたきが、増える。
パンと、財布の中身。——娘の耳が、先に赤くなる。娘のあごが、そのあとで、下がる。
妹の胸の上に置かれた手。——娘の右手が、宙で、さする形をつくって、握り込まれた。
妹が、あの日、笑ったこと。——娘の喉が、小さく、鳴った。
ひとつずつ、指を折るように。不満も、皮肉も、抑揚もない。
……帳を、読み上げている。よく知っている声だ。
「ぜんぶ、覚えております。数えられます」
あの子の呼吸が、途切れた。膝が、うしろへ一寸。すぐ、戻す。
遮ろうとして、失敗している。
「あ、」
「……そ、そんな、」
それきり。
お礼を数える声ではない。あれは、借りの棚卸し。
「あの手紙も、いただきました。……ありがたかったです」
「書いてあることは、ぜんぶ、しました」
手紙。……行けない日の手当てまで、書いて渡したのだろうか。
「妹は、まだ咳をしています」
あの子の肩が、そこで、こわばった。
治らない。光は傷を塞ぐけれど、病は、なだめるだけ。
……妹は、知らない。この娘なら、覚えている。鐘楼の上から、あの子の連れとして、二日とも見ていた。
その薬の名を、わたくしは知っている。どの棚の、何段目に置いてあるかも。
その棚の前を通ったのは、ふた晩前。……わたくしが、閉じた夜。
今日の昼、おなじことを考えたばかり——あの塀の内を仕舞えば、そこから先へ流れていたものは止まる、と。
止まった。
流れは、善し悪しで分かれてはいなかった。犬に渡る金と、子どもの咳止めが、おなじ管を通っていた。
後悔は、ない。四十七は、正しく仕舞った。訂正はしない。
ただ、あの子の肩が、下がった。
わたくしの影が、あの子の白いところに落ちている。
娘の手が、震えている。袖を握り直しても、止まらない。娘は、あの子の顔を、最後まで見ない。
「——なあ、言ったよな」
声の、かたちが変わった。
「明日も来るって。あんた、言ったよな」
あの子が、まっすぐに相手を見た。この場で、はじめて。
……相手は、見ていないのだけれど。
「……はい」
「言いました」
娘のほうが、慌てた。
「……申し訳ございません。いま、街の言葉が出ました」
あの子が、早口になる。これも、はじめて。
「あ、謝らないで、ください。あの、そ、それは」
「……いまのが、いちばん、ちゃんと、聞こえました」
娘は、そこから先を、丁寧な言葉に戻した。
「理由は、うかがいません」
「うかがったら、私、たぶん納得してしまいます。……納得したら、私はまた待ちます」
「待てないんです。もう。妹の咳は、待ってくれませんので」
訊けば納得すると判っていて、訊かない。
……知らないというのは、欠けているのではなくて、盾だ。
「返せない恩は、借りと同じです」
……上手い言い方。わたくしなら、そう書く。
「ですから——もう、くださらないでください」
「祈りも、パンも、手紙も。……庇うのも」
あの子の、上げかけた手が、下りた。祈るときの、あの形。
……祈らせても、もらえない。
「私は、殿下をお待ちします。殿下は一週間とおっしゃいました。あと四日です」
「殿下のお約束は、まだ、切れておりません」
——あと四日。
昼はあの男の口から、日暮れはこの娘の口から。おなじ数が、両側から届いた。
切れていない約束を、切れていない、と言うだけ。誰の約束が切れたのかは、言わずに置いていく。……名指しをしない一撃ほど、抜けない。
あの子は、動かない。両手が、祭服の前で、固く組まれている。
長い、長い間があって。
「……ごめんなさ、」
言い直さない。かわりに、長く、頭を下げた。
給費生の娘が、礼を返す。もっと低く。もっと長く。
「……妹は、マリア様のお手を、あたたかいと申しました」
「それは、本当のことです」
「失礼いたします」
背が、遠ざかる。
あの子の足が、一歩、出た。止まった。口が、呼ぶ形にひらいて——閉じた。
続きが、ない。
名前を知らないわけが、ない。二日も、隣にいたのだ。
……あの子には、呼んでいい名前のほうが、いま、なくなった。
その娘が、柱の手前で、こちらへ浅く礼をした。うつむいたまま、足も緩めないまま。
——見つかっている。
日が回れば、柱の陰は、陰ではなくなるものらしい。
その娘のほうへは、目をやらなかった。わたくしの目は、あの子から離れない。
絹の袖が、礼の行き先を追う。ひとりが、こちらを見て、それきり動かなくなる。ふたり目。三人目。よっつ目まで、数えるほどもなかった。
あの子が、最後に振り返った。
……屋根でもなく、塔の縁でもなく。廊下の、おなじ高さで。
見る側の席にしか座らない女が、四人ぶんと、ひとりぶんの目に留まっている。面紗も、フードも、ここにはないのだけれど。
見つかった以上、やることは決まっている。役者は、幕が上がったら喋るものなの。
扇を開いて、あの子のほうへ、まっすぐ。
「——お行儀の悪いこと」
「渡り廊下で施しの勘定書きを読み上げさせるなんて、どちらの流儀かしら。平民の慈善は、街に置いていらして」
絹の袖が、散る。走らずに。けれど、早く。
……言葉のせいではない。聞かれたのは、ここにわたくしが立っている、ということだけ。
磨いてきたものが、こういう働きをするとは。……使い道を、覚えた。
渡り廊下に、あの子だけが残った。
逃げない。震えている。指も、肩も。目が、離れない。
……見られたまま、帳をつける。
絹の袖、四人。人相は、控えた。
四人とも、もう帳にある。一四九万のうちの、よっつ。順番を繰り上げたくなったけれど、順は、情で動かさない。……今日は。
扇を、閉じる。骨に、爪が食い込んでいた。
刺した言葉は、いつもの目盛りのはずだった。……効きすぎた。
検分。掴まれた腕、なし。投げられた物、なし。あの子に、実害は——ひとつも、ない。
頁の行と、並べておく。絡まれた。割って入った。……そこまでは、書いてあるとおり。
そのさきに、頁は「ふたりの距離が縮む」と書いてある。
縮まなかった。明かりは、点いた。結果だけが、薄い。
……これも。印を、打つ。
涸れた管の向こうに、薬の切れた病人たちがいる。放っておけば、息の細い順に——記せない終わりの、群れになる。
……それは、困る。
仕舞うなら、手ずから。順も、病には決めさせない。
今夜は、あの学者との見回りがある。
締切は、また先。
あの子が、頭を下げた。無言で。深く。
……なにに対しての礼かしら。訊く気は、ない。
顔が、上がる。
わたくしの席は、いつでも、あの子の目の届かない高さにあったのに。
——目が、合っている。




