↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/12

第10話 わがままを、ひとつ

生徒会室の扉を開けるとき、私はいつも、息をひとつ吸う。

ちゃんと、務められますように。それだけの、短いお祈り。


卓に着いて、顔を上げて——見てしまった。

扉にいちばん近い、手前の端。オフィーリア様は、もう座っていらっしゃる。


目が、合った。逸らせなかった。

逸らしたら、見なかったことにする形になる気がして。

先に目を落とされたのは、あちらだった。私の口は、ひらいたまま、なにも言わなかった。


右隣は、今日も空いている。ジークハルト様。……三日目だ。


「請願の返答は、まだ来ていない。期限は、あと三日だ」


聞いてもいないのに、耳の奥が先に鳴った。ひゅう、という、細い音。

八つの妹さんの咳は、あと三日、待ってくれるだろうか。

それから、膝の上で、指が三本、勝手に折れた。……数えている。


「今夜の組は、昨夜と同じだ。輪番は、当夜分しか出さない」


***


夜。灯りは、私が持った。


「線は、昨夜と同じだ。北の渡りから、東棟の裏、詰所、中庭、西の物置前、詰所。線の外は、白ではない。空欄だ。混ぜるな」


「灯りは、下だ。足元を照らせ。顔の高さに上げるな。——持つ者が、先に見える」


言われたとおりに下げると、石畳の継ぎ目が、ひとつずつ浮かんでくる。


「北の渡り、灯りが二つ死んでいる。数に入れろ。——直すのは、私の仕事だ」


詰所。


「生徒会だ。そちらの帳に、刻を書け。私が書くのでは、意味がない」


衛士の方が帳をひらいて、筆を走らせる。

私たちが回ったことを、私たちではない人が書く。それだけのことが、こんなに硬い。


中庭。西の物置前。ふたつ目の詰所でも、刻を書いていただいた。

事は、なにも起きなかった。


「見たものだけ言え。数えられるものを、だ」


「……北の渡りで、灯りが二つ、消えていました」


そこまでは、ちゃんと言えた。それから、なぜだか、口のほうが続けた。


「オフィーリア様は——」


……止まった。

なにを訊きたかったのかも、自分でわからない。わからないものを、差し出すところだった。


殿下は、拾われなかった。表情も動かない。一拍も置かずに、次の項へ移られた。


「——次。西の物置前、鍵が掛かっていた。掛かっていたと、そう書く」


***


部屋に戻って、灯りを消した。それでも、眠れなかった。


言いかけて止めたものを置く棚が、私の中にはある。

いちばん上に、あの子へ渡しそこねた謝罪の、前の半分。

その隣に、今夜の半分が並んだ。……ふたつに、なってしまった。


あの子は、私の手を、もういらないと言った。返せないものは、借りと同じだから。

数えていたのだ。私が数えないでいたぶんまで、ちゃんと。


在れば、動ける。無ければ、動けない。

殿下がおっしゃったのは、届けの紙の話だった。……でも、紙だけの話では、ない。

私の中に在るものは、いまのところ、無いほうの欄に入っている。名前が、ついていないから。


明け方近くまでかかって、私は、それに名前を付けた。

——わがまま。

私のための、たった一枚。だから、自分でそう名づける。

名づけたら、持てた。持てたら、たぶん、出せる。


窓の外は、まだ暗い。明日の卓の、そのあとで。


***


翌日の卓は、短かった。届けが二枚。どちらも落とし物だった。


「請願の返答は、まだ来ていない。期限は、あと二日だ」


昨日より、また減っている。膝の上で、数え直した。


「今夜の組も、昨夜と同じだ」


紙が伏せられて、めいめいが席を立つ。扉にいちばん近い席が、いちばん先に空いた。

衣擦れの音が廊下の向こうへ消えて、カイル様も出ていかれた。残ったのは、殿下と、私だけ。


立ち上がる。膝が、笑っている。


「あ、あの。殿下。……昨夜、申し上げかけて、やめたことを——今日、最後まで、申し上げても、よろしいでしょうか」


殿下は、紙から目を上げただけだった。

なにも、訊かれなかった。

……訊かれたら、言えなかった。訊かれなかったから、言えた。


「わ、わがままを、ひとつ」


言葉に詰まったあいだも、遮られなかった。


「オフィーリア様と、組ませて、いただけませんか」


「——聞いた」


「『わがまま』の欄は、無い。願いとしては受けない」


……あ。

息が、途中で止まった。


「組は替える。今夜は、マリアとオフィーリア。私とカイルだ」


「決めたのは、私だ。そう聞け。——お前が頼んだからではない、という形で出す」


「オフィーリアには、私から割る。マリアは、頼みに行くな」


「三つ、渡す。一。線は、私と回ったのと同じだ。衛士の巡回線に、もう重ねてある。詰所を二箇所、経由しろ。刻は、詰所の帳に書かせろ。お前たちが書くのではない。衛士は付けない」


「二。明朝、紙を一枚。連名だ。見たものだけ書け。無かったものは『無し』と書く。空欄で出すな」


「三。——これは命令ではない。約束だ。事があれば、治すより先に、詰所へ走れ。治すのは、衛士が着いてからだ。——夜に出すのは、今夜で三晩目だ。前の二晩は、私の目の前だった。減り方は、私が見た。今夜は、見えない。私はカイルと、別の線に居る。見えない晩の分も、勘定には入れてある。だが勘定は、目の代わりにはならない。だから、命令ではなく約束で縛る。走れ」


みっつ目が、いちばん呑みにくい。

前に出るのは、考えるより先に、体がやってしまうことだから。

しかも、約束の形で渡された。……前のを守れなかったことは、二日前に、自分の口で認めている。


「呑むなら、今夜出す。呑まないなら、組は替えない。——どちらだ」


息を、ひとつ。


「……呑みます」


「よし。輪番は、当夜分だけだ。明日の分は、明日出す。この組も、同じだ。——以上。行け」


廊下に出て、扉を閉めて、そこでやっと、気がついた。


願いは、通った。通ったところに、私が、いない。

わがままは、受け取っていただけなかった。今夜の組は、殿下がお決めになったことだ。

借りには、ならない。……帳にも、残らない。


……これは、私がいつもしていることだ。

したことを自分で隠して、誰の帳にも載せないでおくこと。その裏返しを、していただいた。


楽で、あたたかくて。

……さびしい。


残ったのは、これだけ。どちらだ、と訊かれて、私が、自分で答えた。

名前は残らなかったけれど、選ぶことだけは、させていただいた。


***


夜。灯りは、私が持った。


本館の前。私が着いたときには、もう歩き出していらした。


「灯りを。——落とさないよう、お願いいたしますわ」


私の手元は、ご覧にならない。


「後ろから照らしなさい。前に出られると、目に障りますわ」


半歩、先。道の暗いほう。

灯りの輪の、いちばん外の縁《ふち》に、裾だけが入っている。


線は、昨夜と同じだった。同じ石畳を、同じ順に。

……ちがうのは、前を歩く背中だけだ。


北の渡りの灯りは、ふたつとも点いていた。今日のうちに、直っている。


追いつこうとして、横に並びかけた。


「袖が焦げます。灯りを、離しなさい」


半歩、下がる。


曲がり角で、置いていかれた。走って、追いついた。


「あの、オフィーリア様——」


「見回りの項目に、お喋りはございませんこと」


それきり、口はひらけなくなった。

それでも、灯りは、ちゃんと下げたままにした。半歩うしろから、足元だけを。


詰所。衛士の方が帳をひらいて、刻を書きはじめる。書くのは、そちら。書かせるのが、こちら。


「控えは、わたくしが。灯りを、そのまま」


ご自分の帳面を出して、筆を走らせる。暗がりなのに、字が崩れない。


「……昨夜とは、組が違いますな」


衛士の方が、そう言った。


「そのようですわね」


前を向いたまま、それだけだった。

割り振られたものを、割り振られたとおりに運んでいらっしゃる、みたいに。


口が、先にひらいた。

ちがいます、と言うつもりだった。息だけが出て、言葉にならない。

三度目だ。今度のは、止まったのではない。私が、止めた。


そう聞け、と渡されたものを、私は呑んだ。呑んだ時点で、それは私の側の約束だ。

守れなかったほうの約束は、二日前に、自分の口で認めたばかり。

それを、誰も見ていない夜道で、もう一度することは、しない。


衛士の方の筆が、まだ動いている。

その音のあいだだけ、務めが、時間をひとつ空けてくれた。


「……今夜のことは、殿下が、お決めになりました」


自分の声が、途中で掠れた。

嘘は、こういう音がするのだ。


帳面の閉じる音がした。オフィーリア様が、戸のほうへ向かわれる。


「……ですけれど」


背中に、言った。


「代わっていただきたいとは、思っておりません」


足音は、止まらなかった。振り返りも、なさらない。


「——たいした物好きですこと」


声の温度は、それまでの棘と、ひとつも変わらなかった。


そのあとで。

前を行く背が、一度だけ、ごくすこし、躓いた。

お決めになった所作には、見えなかった。息みたいだった。

見間違いでしょう、と言われたら、そうですね、と答えるしかない。


戸を出て、しばらく、なにも言われなかった。

訊かれては、いない。……訊かれていないのに、答えなければいけない気が、した。


「……理由は、申し上げられません」


「訊いておりません。——灯りを、前へ」


中庭。西の物置前。鍵は、掛かっていた。

灯りを持つ手が、そろそろ重い。段差に、爪先が引っかかった。


「……ごめんなさ、」


「——足元。灯りが泳いでおりますわ」


言い切る前に、被せられた。

そこだけ、声が、すこし速い。歩は、緩まない。


痛い。

痛いのに——息が、楽になった。


受け取っていただけないと、渡したことにも、ならない。

私はまた、なかったことにできる。


……そう思った、次の拍で。

私、ひどい。


そこから先、棘は、私に当たらなかった。

——刻に遅れます。歩きなさい。

——灯りを、下げなさい。


冷たさは、同じだ。ただ、当たっている先が、私ではない気がする。

……気がする、だけ。誰にも見せられない。


歩調は、そのままだ。次の角でも私は置いていかれて、走って追いついた。


ふたつ目の詰所。

控えの帳が閉じる音がして、その音といっしょに、オフィーリア様の声が落ちた。


「刻は、二つとも。紙は、明朝」


明朝。その一語だけで、明日が、もう決まってしまった。


約束は、していない。誓いも、していない。

それなのに、明日の朝、私はまたこの方に会う。務めが、あるから。

……そういう務めで、よかった。


深く、頭を下げた。


「おやすみなさいませ」


間があった。

振り返っては、くださらない。歩が、一度だけ止まって——背中のまま。


「——手を、洗ってお休みなさい。油が、付いておりますわ」


そのまま、行ってしまわれた。

おやすみ、は、返ってこなかった。


灯りに、手のひらをかざしてみる。

……ほんとうだ。指の根もとが、黒い。

この手で、もう幾日も、なにも治していない。祈らない日の指は、かえって重たくなる。


今日、私は、嘘をひとつ預かった。

剥がさない、と決めた嘘を。剥がしたら、私の守れるものが、また減るから。


重い。

……あの方も、こういうものを、ひとりで抱えていらっしゃるのかもしれない。


借りは、軽くならなかった。名乗れないまま、私の側に、残っている。


***


朝の生徒会室には、まだ誰もいなかった。

紙を一枚、卓に置いて、私の半分を書く。見たものだけ。数えられるものを。

北の渡りの灯りは、ふたつとも点いていたこと。西の物置の鍵は、掛かっていたこと。詰所の刻が、ふたつ。

——この線と、この刻に、事なし。


書き終えて、筆を置いて、顔を上げて。


紙は、私の真向かいにあった。誰の名もない、一脚の前。


いつ置いたのか、覚えていない。

私の目が、いつも住んでいる場所だった。だから、手のほうが、先に行った。


息が、止まる。

取りに戻れば、戻ったことが、置いたことを認める形になる。

……戻れない。


扉が開いた。


「お、おはよう、ございます」


返事は、なかった。


二歩、扉際のご自分の席へ——そこで、歩の弧だけが変わった。

歩数も速さも、そのまま。迷った拍は、ひとつも出ない。


誰の名もない一脚を、音を立てずに、浅く引く。掛けるのも、浅く。

背筋は、紙にまっすぐ。


私の書いた半分を、上から下まで、目でご覧になった。指では、触れない。

一拍。


「——結構。読める字」


袖から筆が出てくる。ご自分の半分は、速かった。

紙は、卓の真ん中へ、すこしだけ戻された。私の側へも、ご自分の側へも、寄せずに。


「これで、一枚」


立って、椅子を音もなく戻し、扉にいちばん近いご自分の席へ。

置き場所のことは、ひとことも、おっしゃらなかった。


誰の名もない一脚は、もとのところに戻っている。

卓の真ん中に、紙が一枚。


字が、ふたつぶん。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。