第10話 わがままを、ひとつ
生徒会室の扉を開けるとき、私はいつも、息をひとつ吸う。
ちゃんと、務められますように。それだけの、短いお祈り。
卓に着いて、顔を上げて——見てしまった。
扉にいちばん近い、手前の端。オフィーリア様は、もう座っていらっしゃる。
目が、合った。逸らせなかった。
逸らしたら、見なかったことにする形になる気がして。
先に目を落とされたのは、あちらだった。私の口は、ひらいたまま、なにも言わなかった。
右隣は、今日も空いている。ジークハルト様。……三日目だ。
「請願の返答は、まだ来ていない。期限は、あと三日だ」
聞いてもいないのに、耳の奥が先に鳴った。ひゅう、という、細い音。
八つの妹さんの咳は、あと三日、待ってくれるだろうか。
それから、膝の上で、指が三本、勝手に折れた。……数えている。
「今夜の組は、昨夜と同じだ。輪番は、当夜分しか出さない」
***
夜。灯りは、私が持った。
「線は、昨夜と同じだ。北の渡りから、東棟の裏、詰所、中庭、西の物置前、詰所。線の外は、白ではない。空欄だ。混ぜるな」
「灯りは、下だ。足元を照らせ。顔の高さに上げるな。——持つ者が、先に見える」
言われたとおりに下げると、石畳の継ぎ目が、ひとつずつ浮かんでくる。
「北の渡り、灯りが二つ死んでいる。数に入れろ。——直すのは、私の仕事だ」
詰所。
「生徒会だ。そちらの帳に、刻を書け。私が書くのでは、意味がない」
衛士の方が帳をひらいて、筆を走らせる。
私たちが回ったことを、私たちではない人が書く。それだけのことが、こんなに硬い。
中庭。西の物置前。ふたつ目の詰所でも、刻を書いていただいた。
事は、なにも起きなかった。
「見たものだけ言え。数えられるものを、だ」
「……北の渡りで、灯りが二つ、消えていました」
そこまでは、ちゃんと言えた。それから、なぜだか、口のほうが続けた。
「オフィーリア様は——」
……止まった。
なにを訊きたかったのかも、自分でわからない。わからないものを、差し出すところだった。
殿下は、拾われなかった。表情も動かない。一拍も置かずに、次の項へ移られた。
「——次。西の物置前、鍵が掛かっていた。掛かっていたと、そう書く」
***
部屋に戻って、灯りを消した。それでも、眠れなかった。
言いかけて止めたものを置く棚が、私の中にはある。
いちばん上に、あの子へ渡しそこねた謝罪の、前の半分。
その隣に、今夜の半分が並んだ。……ふたつに、なってしまった。
あの子は、私の手を、もういらないと言った。返せないものは、借りと同じだから。
数えていたのだ。私が数えないでいたぶんまで、ちゃんと。
在れば、動ける。無ければ、動けない。
殿下がおっしゃったのは、届けの紙の話だった。……でも、紙だけの話では、ない。
私の中に在るものは、いまのところ、無いほうの欄に入っている。名前が、ついていないから。
明け方近くまでかかって、私は、それに名前を付けた。
——わがまま。
私のための、たった一枚。だから、自分でそう名づける。
名づけたら、持てた。持てたら、たぶん、出せる。
窓の外は、まだ暗い。明日の卓の、そのあとで。
***
翌日の卓は、短かった。届けが二枚。どちらも落とし物だった。
「請願の返答は、まだ来ていない。期限は、あと二日だ」
昨日より、また減っている。膝の上で、数え直した。
「今夜の組も、昨夜と同じだ」
紙が伏せられて、めいめいが席を立つ。扉にいちばん近い席が、いちばん先に空いた。
衣擦れの音が廊下の向こうへ消えて、カイル様も出ていかれた。残ったのは、殿下と、私だけ。
立ち上がる。膝が、笑っている。
「あ、あの。殿下。……昨夜、申し上げかけて、やめたことを——今日、最後まで、申し上げても、よろしいでしょうか」
殿下は、紙から目を上げただけだった。
なにも、訊かれなかった。
……訊かれたら、言えなかった。訊かれなかったから、言えた。
「わ、わがままを、ひとつ」
言葉に詰まったあいだも、遮られなかった。
「オフィーリア様と、組ませて、いただけませんか」
「——聞いた」
「『わがまま』の欄は、無い。願いとしては受けない」
……あ。
息が、途中で止まった。
「組は替える。今夜は、マリアとオフィーリア。私とカイルだ」
「決めたのは、私だ。そう聞け。——お前が頼んだからではない、という形で出す」
「オフィーリアには、私から割る。マリアは、頼みに行くな」
「三つ、渡す。一。線は、私と回ったのと同じだ。衛士の巡回線に、もう重ねてある。詰所を二箇所、経由しろ。刻は、詰所の帳に書かせろ。お前たちが書くのではない。衛士は付けない」
「二。明朝、紙を一枚。連名だ。見たものだけ書け。無かったものは『無し』と書く。空欄で出すな」
「三。——これは命令ではない。約束だ。事があれば、治すより先に、詰所へ走れ。治すのは、衛士が着いてからだ。——夜に出すのは、今夜で三晩目だ。前の二晩は、私の目の前だった。減り方は、私が見た。今夜は、見えない。私はカイルと、別の線に居る。見えない晩の分も、勘定には入れてある。だが勘定は、目の代わりにはならない。だから、命令ではなく約束で縛る。走れ」
みっつ目が、いちばん呑みにくい。
前に出るのは、考えるより先に、体がやってしまうことだから。
しかも、約束の形で渡された。……前のを守れなかったことは、二日前に、自分の口で認めている。
「呑むなら、今夜出す。呑まないなら、組は替えない。——どちらだ」
息を、ひとつ。
「……呑みます」
「よし。輪番は、当夜分だけだ。明日の分は、明日出す。この組も、同じだ。——以上。行け」
廊下に出て、扉を閉めて、そこでやっと、気がついた。
願いは、通った。通ったところに、私が、いない。
わがままは、受け取っていただけなかった。今夜の組は、殿下がお決めになったことだ。
借りには、ならない。……帳にも、残らない。
……これは、私がいつもしていることだ。
したことを自分で隠して、誰の帳にも載せないでおくこと。その裏返しを、していただいた。
楽で、あたたかくて。
……さびしい。
残ったのは、これだけ。どちらだ、と訊かれて、私が、自分で答えた。
名前は残らなかったけれど、選ぶことだけは、させていただいた。
***
夜。灯りは、私が持った。
本館の前。私が着いたときには、もう歩き出していらした。
「灯りを。——落とさないよう、お願いいたしますわ」
私の手元は、ご覧にならない。
「後ろから照らしなさい。前に出られると、目に障りますわ」
半歩、先。道の暗いほう。
灯りの輪の、いちばん外の縁に、裾だけが入っている。
線は、昨夜と同じだった。同じ石畳を、同じ順に。
……ちがうのは、前を歩く背中だけだ。
北の渡りの灯りは、ふたつとも点いていた。今日のうちに、直っている。
追いつこうとして、横に並びかけた。
「袖が焦げます。灯りを、離しなさい」
半歩、下がる。
曲がり角で、置いていかれた。走って、追いついた。
「あの、オフィーリア様——」
「見回りの項目に、お喋りはございませんこと」
それきり、口はひらけなくなった。
それでも、灯りは、ちゃんと下げたままにした。半歩うしろから、足元だけを。
詰所。衛士の方が帳をひらいて、刻を書きはじめる。書くのは、そちら。書かせるのが、こちら。
「控えは、わたくしが。灯りを、そのまま」
ご自分の帳面を出して、筆を走らせる。暗がりなのに、字が崩れない。
「……昨夜とは、組が違いますな」
衛士の方が、そう言った。
「そのようですわね」
前を向いたまま、それだけだった。
割り振られたものを、割り振られたとおりに運んでいらっしゃる、みたいに。
口が、先にひらいた。
ちがいます、と言うつもりだった。息だけが出て、言葉にならない。
三度目だ。今度のは、止まったのではない。私が、止めた。
そう聞け、と渡されたものを、私は呑んだ。呑んだ時点で、それは私の側の約束だ。
守れなかったほうの約束は、二日前に、自分の口で認めたばかり。
それを、誰も見ていない夜道で、もう一度することは、しない。
衛士の方の筆が、まだ動いている。
その音のあいだだけ、務めが、時間をひとつ空けてくれた。
「……今夜のことは、殿下が、お決めになりました」
自分の声が、途中で掠れた。
嘘は、こういう音がするのだ。
帳面の閉じる音がした。オフィーリア様が、戸のほうへ向かわれる。
「……ですけれど」
背中に、言った。
「代わっていただきたいとは、思っておりません」
足音は、止まらなかった。振り返りも、なさらない。
「——たいした物好きですこと」
声の温度は、それまでの棘と、ひとつも変わらなかった。
そのあとで。
前を行く背が、一度だけ、ごくすこし、躓いた。
お決めになった所作には、見えなかった。息みたいだった。
見間違いでしょう、と言われたら、そうですね、と答えるしかない。
戸を出て、しばらく、なにも言われなかった。
訊かれては、いない。……訊かれていないのに、答えなければいけない気が、した。
「……理由は、申し上げられません」
「訊いておりません。——灯りを、前へ」
中庭。西の物置前。鍵は、掛かっていた。
灯りを持つ手が、そろそろ重い。段差に、爪先が引っかかった。
「……ごめんなさ、」
「——足元。灯りが泳いでおりますわ」
言い切る前に、被せられた。
そこだけ、声が、すこし速い。歩は、緩まない。
痛い。
痛いのに——息が、楽になった。
受け取っていただけないと、渡したことにも、ならない。
私はまた、なかったことにできる。
……そう思った、次の拍で。
私、ひどい。
そこから先、棘は、私に当たらなかった。
——刻に遅れます。歩きなさい。
——灯りを、下げなさい。
冷たさは、同じだ。ただ、当たっている先が、私ではない気がする。
……気がする、だけ。誰にも見せられない。
歩調は、そのままだ。次の角でも私は置いていかれて、走って追いついた。
ふたつ目の詰所。
控えの帳が閉じる音がして、その音といっしょに、オフィーリア様の声が落ちた。
「刻は、二つとも。紙は、明朝」
明朝。その一語だけで、明日が、もう決まってしまった。
約束は、していない。誓いも、していない。
それなのに、明日の朝、私はまたこの方に会う。務めが、あるから。
……そういう務めで、よかった。
深く、頭を下げた。
「おやすみなさいませ」
間があった。
振り返っては、くださらない。歩が、一度だけ止まって——背中のまま。
「——手を、洗ってお休みなさい。油が、付いておりますわ」
そのまま、行ってしまわれた。
おやすみ、は、返ってこなかった。
灯りに、手のひらをかざしてみる。
……ほんとうだ。指の根もとが、黒い。
この手で、もう幾日も、なにも治していない。祈らない日の指は、かえって重たくなる。
今日、私は、嘘をひとつ預かった。
剥がさない、と決めた嘘を。剥がしたら、私の守れるものが、また減るから。
重い。
……あの方も、こういうものを、ひとりで抱えていらっしゃるのかもしれない。
借りは、軽くならなかった。名乗れないまま、私の側に、残っている。
***
朝の生徒会室には、まだ誰もいなかった。
紙を一枚、卓に置いて、私の半分を書く。見たものだけ。数えられるものを。
北の渡りの灯りは、ふたつとも点いていたこと。西の物置の鍵は、掛かっていたこと。詰所の刻が、ふたつ。
——この線と、この刻に、事なし。
書き終えて、筆を置いて、顔を上げて。
紙は、私の真向かいにあった。誰の名もない、一脚の前。
いつ置いたのか、覚えていない。
私の目が、いつも住んでいる場所だった。だから、手のほうが、先に行った。
息が、止まる。
取りに戻れば、戻ったことが、置いたことを認める形になる。
……戻れない。
扉が開いた。
「お、おはよう、ございます」
返事は、なかった。
二歩、扉際のご自分の席へ——そこで、歩の弧だけが変わった。
歩数も速さも、そのまま。迷った拍は、ひとつも出ない。
誰の名もない一脚を、音を立てずに、浅く引く。掛けるのも、浅く。
背筋は、紙にまっすぐ。
私の書いた半分を、上から下まで、目でご覧になった。指では、触れない。
一拍。
「——結構。読める字」
袖から筆が出てくる。ご自分の半分は、速かった。
紙は、卓の真ん中へ、すこしだけ戻された。私の側へも、ご自分の側へも、寄せずに。
「これで、一枚」
立って、椅子を音もなく戻し、扉にいちばん近いご自分の席へ。
置き場所のことは、ひとことも、おっしゃらなかった。
誰の名もない一脚は、もとのところに戻っている。
卓の真ん中に、紙が一枚。
字が、ふたつぶん。




