第11話 呼んだ名と、護った手
給費生には、外に出てよい昼の枠がある。外出帯という。今日はその同行と、あの区画の薬と糧の照会。あの男の当日分は、朝の卓で短く畳んであった。「訊くな。数えろ」。
出がけの窓口に、預かり品がひとつ。かごに包みが並び、届け先の札が付いている。あの子が、それを受けた。
「……お預かり、します」
持ち姿が、施しのかごのそれではない。両腕で、高めに、胸へ寄せる。書類を運ぶ手つきだ。届け先のある荷は、抱え方から変わるのだろう。
預かる、と言った。配る、ではなく。
門を出る。並びは、夜と同形に組んである。給費生が三人、あの子のかごが真ん中、わたくしがいちばん外。昼が夜と違うのは、明るさと、人目の数だけ。
検問で、槍が半分だけ倒れた。
「学園の給費生ですわ。わたくしの警護の内——通しなさい」
槍が、戻る。……聞き分けのいいこと。
道が下るにつれて、石畳の目が粗くなる。舗装の切れた先が、あの区画だ。
照会は、歩きながらで足りる。口は使わない。目で数える。薬糧の請願は、残り一日。欄は、今日のうちに埋める。
店先の棚、空。値札、書き直し。列。列は長く、声だけが少ない。並びを乱す足は、ひとつもない。……静かな欠け方だ。
黒い線は、引いていない。引かされても、いない。
「早く点いた火が、書かれたより小さく燃えて、早く尽きる」——観察の欄から、検分済みの欄へ、繰り上げ。読み筋、合格。欄のある分は、全部、合った。
最後に線を引いた夜、引いた手は私のものだった。四十と七人。引かずに済んでいるこの昼、済ませている手も、同じ手だ。
……鳴るのは、欄の無いところだ。名前を付ければ、欄になる。付ける名が、まだ無い。——塩漬けに。
前を行くかごは、揺れずに進む。
棚、空。列、立つ。線、引かず。残、動かず。——まだ、やれる。
***
裏路地に入ると、道のほうが動いた。前から来た女が、子どもの肩を引いて、壁際へ寄る。戸が、細く閉まる。
すれ違いの三歩ぶんだけ、あの子の息が止まる。肩は、上がらない。過ぎて二歩目で、息が、静かに落ちる。
かごの縁で、母子側の手だけが内へ回り、白い甲がかごの陰に入る。袖が、指の付け根まで下りる。
戸の音に、頭は向かない。かごが指一本ぶん持ち上がって、肘が締まる。次の数歩だけ、足音が小さくなる。
施した手が、避けられている。この行を載せる欄は——まだ、決めない。決めないが、見た。
避け方が、変わった。往来の避けは、道を譲る形。いまのは、目を置いて退く形だ。
壁際に、影がいくつか。目の置き場が、母子と違う——顔ではなく、かごの高さ。歩を合わせて、間が詰まってくる。
古い飢えは、手が早い。——半歩、外を厚くする。扇、右へ。
先手は、物に来る。物は、くれてやる駒。手は、そのあとで足りる。
あの子の歩は、緩まない。顎の先だけが、下がる。完走しないおじぎ。視線は前、誰の目も追わない。かごは、胸の高さのまま。
横から、手が出た。
かごの縁を掴んで、引く。あの子の指が、閉じる。手が開くより先に、体のほうが半歩、持っていかれる。
息継ぎが、ない。肩は、上がらないまま。目は、掴んだ手とかごに固定のまま。崩れる半歩の、途中で——
「——ジークハルト様……ッ」
一音目だけが、あの子にない音量で高く出て、途中で裏返って割れた。「様」は、割れた息の残りで、形だけ完走した。
叫びは、敬称ごとだった。
口が、最後の母音の形のまま、一拍遅れて閉じる。喉が、ひとつ動く。目が一拍、自分の閉じた指へ落ちる。——声の出所を、手に探しに行った目、と読んだ。
悲鳴のあと、首が、音のしないほうへ、四分の一だけ回りかける。
呼んだ声ではない。零れた声だ。
あの日、あの場に落ちた『伏せろ』が——名前の形で、いま出てきた。声の対。入った声は、いつか出る。それだけのことだ。
歩を止め、立つ。目が、四を数え終える。扇が閉じて、鳴る。音は、ひとつ。
「——退きなさい」
絹の袖なら、これで散る。……飢えた手は、体面を持たない手ですこと。
音の後も、かごが動く。音も、言葉も、通らない相手。——道具を、一段。
足を詰める。
呼声で、手が一段、速くなった。なんの欄が速くしたかは、検分しない。しないまま、速いだけ使う。
一打目。かごの縁を掴んだ甲へ、閉じた扇。指が開く。かごが、戻る。
「後ろへ」
体が半拍だけ前へ傾いて、それから従った。下がった一歩は給費生たちの前に着地して、かごは賊から遠い側へ移っている。
「後ろへ」に、前へ寄る半拍。……順番が逆の子だ。欄の余白に。
二打目。あの子の側へ伸びた手首。足は、舞踏会の運びの転用でいい。進路を、塞ぐ。
速くなる。……速すぎるな。昼の速さは、習い事の速さまで。
三打目。荷へ回ったひとりの、膝裏。尻餅。倒れた者に、追い打ちは入れない。
打つ音のたび、視界の端で、あの子の指さきが小さく跳ねる。
四人目の肩が、引けた。
手には何か。狙いは、荷ではない。間合いは、遠い。——半歩前、半歩横。投げ手と、あの子を結ぶ線の上へ。
鈍い音が、ひとつ。
石は、壁が受けた。
あの子は、その全部を見ていた。見開いたまま。まばたきは、ない。
視線が一本、まばたきを忘れて張り付いている。——後で数える。
四人、三打。石のひとりは、打たない。投げた腕ごと、逃げた。残りの足も、続く。追わない。
扇を開く。息ひとつ分かけて、音を立てずに畳む。始まりの音は、ひとつ。畳む音は、立てない。
「——お開き、ですわ」
かごから、あの子の右手が離れた。一度、口もとへ上がって——下りる。短い吸気が、二度、三度。
最初の声は、平時より小さかった。
「……お怪我は、ありませんか」
給費生の顔を、端から数えながら。最後のひと言で、視線だけが、扇の手へ来た。
自分の掌は、数に入っていないらしい。
「——手を」
目で、三拍。右の掌——持ち手の痕が、赤く一本。左の掌と、手首。袖口と、裾。触れない。
赤いのは、付けられた傷ではない。離さなかった代金だ——握った側の痕。圧痕、青あざ、一本。……この痕は——光で治さないと、数日、消えない印だ。
あの子が、かごを左腕に抱えなおした。地面には、置かない。空いた掌を、こちらへ差し出す。
「……だ、大丈夫です。持てます」
大丈夫、は聞いていない。持てます、のほうだけ受ける。持つ、は務めの語だ。
「——結構」
検分の三拍が済んだ、その口で言う。言葉への返事には、しない。
あの子が、散った包みをひとつずつ戻す。泥水を吸ったひと包みの上で、手が一拍浮いて——取らずに、立った。それから、かごを検める。
「……ふた包み、足りません」
泥水を吸った包みは、もう薬袋ではない。拾わない判断は、正しい。正しい判断の顔が、少し、痛い顔をしていた——欄外。
「物資を。……詰所が先ですわ」
道中、あの子の立ち位置が二度、揺れた。わたくしの肩の半歩うしろ。それから、給費生の外側へ、出なおす。
置いてきた包みへの振り返りは、一度だけ。逃げた側の路地へも、一度——治し手の目が伸びて、戻る。その目は、自分の右の掌には寄らない。手当ての列の、最後尾に自分を置くらしい。閉じた扇の手へ——甲、手首、肩の順に、横目が二度、三度。
浮いたままだった右手が、丸まる。規定より深く、二拍長いおじぎ。
「……ごめ、」
息だけの大きさで出て、止まった。誰への形にもならないおじぎが、ひとつ。歩が、戻る。
泣かない。まばたきの数だけが、多い。
宛先の無い詫びが、ひとつ、道に落ちた。拾わない。拾えば、宛先が、わたくしになる。
新しい欄——「火の続き」。目を置いて退く形で残り、飢えの形で残り、今日、石の形で飛んだ。三つとも、同じ火の続きだ。一本の欄で書く。
学園の詰所の屋根が見えたところで、もう二行。
安堵の欄——危機の反射に、呼べる名が、あの子にはある。妬みの欄——その名は、わたくしの名ではない。相殺せず、繰り越し。
あの子の帳に、わたくしを呼ぶ行は無い。無いのは、わたくしが作らせていないからだ。触れない。呼ばせない。関わりには、規則の顔しか出さない——その床を敷いたのは、私。この欄の損は、自損と記す。
詰所。板張りの卓で、当番の衛士が筆を立てる。あの子が、息をひとつ置いた。
「貧民街の縁で、数人に。深いお怪我は、どなたにも、ありません。物資を、ふた包み。——」
一拍。音の通り道を、確かめる間。
「……オフィーリア様が、追い払って、くださいました」
「私が、かごを、離さなかったので——引かれて、声を、上げました」
聞いていない顔で、全部聞く。表へ出るのは、扇の柄を一度持ち直す——それだけ。
訂正、一件。あの子の口に、わたくしを呼ぶ行——有る。初出、今日、詰所、届けの文体、様付き。自損の欄、値を一段、戻す。戻したのは、わたくしではない。床の上に、向こうから一段、組まれた。
但し書き。火の中の名は、彼。紙の前の名は、わたくし。呼ばれたのは彼で、こちらに落ちたのは、宛先の無い『ごめ、』の半句。……どちらが上等かは——欄が違う。並べない。
***
翌朝の生徒会室。連名の紙は、卓の真ん中に載っている。真ん中は、もう決まりだ。載っているのは、昨日の事。
あの子の目が、入室の初見に、甲、手首、肩、と一度だけ速く辿って——閉じた扇へ、一瞥。以後、その目は戻らない。
あの男が、取った。
「——受け取った」
目は、紙の長さの分だけ動く。問いは、空いた欄の分だけ。数の割れは、割れたまま、通った。
あの子が筆を借りて、自分の欄を埋める。筆を持つ右の掌に、痕は無い。自分にも、光は使えたらしい。……印は消え、帳には残る。ふた包み、の数字の前でだけ、筆が、一拍、止まる。
わたくしは立ったまま、卓へ半身。自分の欄に、四、とだけ書く。あの子の数の隣に、割れたまま、並ぶ。
事が載って、紙が重い。重い紙は、椅子の理由を作りに来る——その筋が、今朝から、在る。立って、届いた。条項が守ったのではない。卓の幅が守った。……引くのは椅子ではない。紙の上の、あの子の字だ。
写しの『引かれて、声を』の行を、わたくしの目が通るあいだ、あの子の筆は、止まっていた。行が過ぎると、動き出す。読む速さを、知られている。
卓の端では、あの学者が着座のまま、紙の写しを揃えている。
「写しは、衛士の詰所からも届いております」
「二人とも、条件のとおりに動いた。——帳に、そのまま載る」
「届けは出してある。務めは続く。——以上だ」
照会の欄は、今日の具申へ渡る。請願は、今日が期限——紙の側は、間に合った。
今日の一件は、あの区画で話になる。扇の令嬢の話——仕込んだ覚えのない、野生の悪評だ。育つ先は、判らない。
罪の欄は、今日も作らない。……今日の分は、作らない理由を書くのに、一行余計に要った。要った、と書いておく。拒否の維持費、第二項。
物は、くれてやる算段だった。離さない手が、算段の外から出た。掌の痕は消えても、差額一本は、欄から消えない。
朝の光が、卓の半分まで来ている。
護る、の欄。立てるものだと思っていた。——見つけた。立っていた。足の置き方の中に、扇を右へ移す手の中に、外を厚くする半歩の中に。未登記のまま、記帳されていた欄だ。
向こうの帳の『護る』は、生かして終わる欄。こちらの『護る』は、この手で終える欄。同じ字で、違う勘定。……字が同じ、が、いちばん高くつく。
議は、次の紙へ移っている。
夜の手の続きが、あの子への石に換算される経路、一本、実測。換算率、不明。夜の帳が、あの子の欄からの査定を受けるのは——初めてだ。保留。……今後、夜の手を動かす前に、この欄を一度、通す。駅がひとつ、増えただけだ。駅は、止まる場所ではない。——今は、まだ。
扉に、伝令。あの男が受けて、短い。
「——聞いた」
議の終わり際。あの男の手が、翌日分の割当の紙に一行を足した。
字は——ジークハルト。
位置、可。勘、可。腕、可。三行が、反射で開く。
四行目が、勝手に動く。書きかけの字が、検分の字ではない。筆が、止まる。
数えるつもりの無い数が、ある。あの子が、あの名を呼んだ回数、一。昨日で、一。数えた覚えが無いのに、桁が、ある。
扇の骨が、指の中で、ひとつ鳴った。鳴らした覚えは、無い。
余白に、『呼』の一字。筆は、そこで止まる。続きは、書かない。消しもしない。——全部書ける日が、来ないほうがいい。
……なんの欄がこれを書かせたかは——検分しない。
昨日の石の数秒、視線が一本、まばたきなしで、わたくしに付いていた。……全部、と見られていた。全部、の欄は私の帳に無い。無い欄の行は、余白へ。……まばたきゼロは、私の流儀だ。流儀を、間近でやられたのは、初めてだ。困るものが無いのに、余白が一行、埋まった。——埋めたのは、誰の筆だ。
散会。扉が閉まって、部屋が半分、静かになる。
事、一件。人、無傷。物、ふた包み欠け。打、三。線、引かず。火の続き、開欄。換算、保留。
……残、一四九万二〇四一。動かず。
全部、数えられる。まだ、数えられる。——まだ、やれる。




