第7話 言われる、だけです
貧民街の朝。石造りの門と、高い塀。光が、塀の上から通りへ降りはじめている。
門の前に、封鎖の縄が渡してある。立番の衛兵がふたり、槍を立てて、縄の脇に動かずにいる。若いほうの指が、槍の柄の同じところを、何度も握り直す。
通りを隔てて、人垣が遠巻きに立つ。距離が、詰まらない。戸口や路地の口から顔が出て、しばらく見て、引っ込む。それが、繰り返される。
泣いている者は、ひとりもいない。手を合わせる者も、いない。
静かだ。塀の内から、物音はひとつも届かない。屋根の上を、鳥が一羽、渡っていく。
朝市の通り。木の露店が板を並べ、籠の薬草が量り売りに出ている。籠は、どれも底が見えている。値を書いた板は、消した跡の上に、また書いてある。
通りに面した一軒は、戸が蹴り破られたまま、開いている。棚は、空だ。土間に、踏まれた麻の包みと、零れた薬草の束が散らばる。通りの奥の路地へ、包みを抱えた人影がひとつ、足早に消えていく。
数軒先のもう一軒は、露店が品を出す刻限に、戸を下ろしたままでいる。
その並びの角に、人垣がもうひとつある。こちらは、近い。肩と肩が、触れている。安酒の瓶が手から手へ回り、手拍子が歌になり、笑い声が重なる。
輪の中心に、子を抱いた母親がいる。子の背を叩く手が、歌と同じ拍子を刻んでいる。
「魔女さまが、飢えた子らのために、お屋敷の旦那を殺してくだすったんだよ」
人垣の奥から、声が返る。
「これで薬も食い物も、安く手に入るようになるさ。もう、ひもじい思いはしねえ」
瓶の回るあたりから、もうひとつ。
「どこぞの紛い物とは違うねえ」
笑い声が、そのあとを埋める。歌は、途切れない。
人垣の端に、年寄りがひとり、半分だけ輪に入って立っている。
「明日の薬は、どこで買やいいんだ」
誰も、答えない。歌が続いて、その声を、かき消していく。
年寄りの口が、もう一度ひらきかけて、閉じる。輪の外へ、半歩戻る。
石造りの門の前。縄の内に、槍が二本、立っている。人垣は、まだ遠い。
通りの奥から、通行人がひとり、歩いてくる。縄の手前で、足を止める。手には、名の無い野の花がひと枝。
屈んで、縄の外の石畳に、それを置く。指が、置く寸前に一度、止まる。
短く、頭を下げる。来た道を、戻っていく。
花は、縄の外に残る。衛兵は、取り上げない。
誰も、笑わない。
***
朝は、窓辺で祈った。今日も、だれかの役に立てますように、と。いつもの、それだけの祈り。
いつもどおりで、いられたのは、そこまでだった。
昼になっても、噂は廊下を走りつづけている。
「——下働きも、身内も、みな殺しだったそうよ」
「下働きだけでも、三十からいたって聞いたわ」
「それで、遺体にはひとつずつ、お花が……」
お花。
抱えていた包みの上で、指が、一瞬、止まった。
あの朝の、村。
私が治したはずの人たちが、ひとりずつ、胸にひと枝を載せて、横たわっていた。
助けていただいた。それは、ほんとうのこと。
それでも——あれが、なんだったのか、私には、わからない。
わからないままのものが、こわい。
亡くなった方たちに、お祈りを——そう思って、手が、動かない。
考えない。思い出さない。
今朝、この噂をはじめて聞いたときから、ずっと、それだけをやっている。
「例の魔女の仕業だわ」
「まだ、この王都のどこかに——」
ざわめきは、どの廊下を歩いても、途切れなかった。
そして、べつの声のほうは、私を選んで刺してくる。
——貧民街通い、ですって。
——あの騒ぎも、あの人がいたからでしょう。
ひそめ声は、聞こえないふりをするには、すこしだけ大きい。すれ違いざまに、逸れていく目。絹の袖が、よけて通る。
首のうしろが、ちりちりする。耳は、聞かなくていい声ほど、よく拾う。
中庭の見える窓のそばに、人の輪があった。
真ん中の生徒は、目を泣き腫らしていた。……あの館の、ご親族なのだと、噂の切れはしが言っていた。
胸が、つられて痛む。気がつくと、足が向きかけていた。
——いまの私が行っては、かえって。
足が、止まる。
……ほんとうに、そう?
答えの出ないまま、目を伏せて、通り過ぎた。
今日は一日、ジークハルト様のお姿を見ていない。騎士団の御用、だろうか。
……こういう日に、限って、いらっしゃらない。
べつに、用があるわけでは、ないのだけれど。
あの朝も、昨日の騒ぎも、私は、なにもできていない。……ひとりだと、そのことばかりが、大きくなる。
昨日のお昼、あの街で、倒れんな、と言われた。
それから、夕方の騒ぎ。目をつぶると、まだ、あの赤が見える。石畳に、ぽつりと落ちた、あの方の腕の血。考えるより先に飛び出した私の、かわりに流れた血だ。
お前のせいじゃねえ、と言ってくださった。
お礼が、まだ、言い足りない。
終業の鐘が鳴ったら、街へ行こう。「明日も、来ます」の、お約束があるから。
***
終業の鐘のすぐあと、廊下の先に、おふたり。殿下と、講義録をひらいたカイル様。
「マリア。——少し、いいか。立ち話で済む」
肩が跳ねて、深くおじぎ。
「は、はいっ。……あの、ごめんなさい、私——」
「昨日の働きは、見たとおりだ。……眠れているか」
……半拍、遅れた。
「……はい。眠れて、います」
「食事は」
「い、いただいています。今朝も、ちゃんと」
……今朝のパンは、半分。
「なら、いい。——祈りの使いすぎは、傷と同じに数えろ。治し手が倒れるのが、いちばん高くつく」
「……横から、一点」
カイル様だ。目も、上げずに。
「返事に半拍かかる『眠れています』は、私の帳面では『寝ていない』の欄に入ります。——それと、昨日のあなた、紙の色でしたよ。祈りの前に、まず寝ることです。……以上」
「うっ……ね、寝ます! 今夜は、ちゃんと……!」
殿下の声が、半段、低くなった。
「今朝の報は、耳に入っているな」
「……はい。……噂で、だけ、ですが」
「今日、学園の名で警戒の布告を出す。詳細はそちらで読め。……その上で、だ。マリア——しばらくは、街のほうは控えるように」
息を、のんだ。
「……あ、あの。でも——」
「命令ではない。咎めでもない。お前たちの請願は、私が受けた。あれは正しい訴えだ——取り下げの話は、していない」
「でも……壁際に、まだ待っている人が。私、『明日も、来ます』って、お約束をしてしまったんです」
「相手は、目撃者を残さない。姿の見えない相手は、避けられない。避けられない相手のいる場所には、近づかない。——それだけの話だ」
指先から、熱が引いた。
目撃者を、残さない。——なら、どうして、私は。
……やめて。いまは。
「ごめんなさい……! でも、あの子の——八つの妹さんの咳は、五日、待ってくれません。私の祈りは、緩和しか、できないんです」
「わかっている。だから、具申は生きている。期限は、あと五日。——違えない。お前が行かずに済む形を作るのが、私の側の仕事だ」
深く、頭を下げた。
「……はい。……街は、控えます」
「明日も」って、言ったのに。謝りに行くことさえ、できないんだ。でも——責任って、ああいう温度のものなんだ。
……それから、同じ声のまま。
「……最後に、一つ。——オフィーリア嬢に、何か、されたことはあるか」
……オフィーリア様? どうして、いま——
渡り廊下。平民の分際で。……あれは、「されたこと」に入るの? 手は、一度も。言葉、だけ。「言われます」は告げ口。「何もありません」は嘘——殿下に、嘘——
口が、ひらいて、閉じた。
「事実だけでいい。あったか、なかったか」
指先が、袖口をつまむ。
カイル様が、講義録を閉じた。
「……参考までに。その沈黙は、いま『在った』の側に積まれていますよ。——庇うおつもりなら、逆です。事実が軽いなら、軽いまま出す。それが、いちばんの庇い方だ」
……庇う。そういう顔、していたんだ。
軽いなら、軽いまま。それで守れるなら、言える。
——沈黙は、積まれる。言わないでいることは、守ることに、ならない————
……いまは。いまの、お話。息を、ひとつ。
「……オフィーリア様、は。……あの。……何も。……何も、されては、いません。——言われる、だけ、です」
あわてて、付け足す。
「あ、あの、でも……身分の、ことだけです。ほんとうの、ことなので……」
「——言葉だけ、か。手や、物を出されたことは」
「あ——ありません。一度も、です」
「一度も、だな」
「はい」
「わかった」
殿下とカイル様が、一瞬、目を見交わした。
「妙な問いをした。忘れていい。ただ——言葉でも、度を越えるものがあれば、生徒会に届けろ。紙一枚でいい。届けが在れば、私は動ける。無ければ、動けない。……覚えておけ」
「……はい。……覚えて、おきます」
……届いていない紙が、ある。私の、出さないでいる紙も——
……かんがえ、ない。
「引き止めた。……行っていい。——街は、控えろ。何かあれば、まず生徒会だ」
「ありがとう、ございました。請願のことも、どうか。……街は、控えます」
歩き出した背中に、声。
「——ああ、それと。今夜こそ、寝ることです。……紙の色で祈られると、こちらの寝覚めが悪い」
ぴたりと止まる。頬が、熱い。
「は、はいっ。寝ます……! ——お、おやすみなさいませ……!」
言ってから、窓の外の、まだ高い夕陽に気づく。逃げるように一礼して、小走り。
まだ、夜じゃなかった……!
……私が寝ないと、カイル様の朝が悪いらしい。それなら、寝ないと。
そういえば——「立ち話で済む」は、私のための、お言葉だった。
約束が、みっつになった。ジークハルト様の「倒れんな」と、殿下の「傷と同じに数えろ」と、カイル様の「今夜こそ」。
……わからないことも、ひとつ、増えたけれど。
***
街へ向かうはずだった足を、寮のほうへ向ける。
せめて、紙を書こう。妹さんのそばにいる、あの子に託せるように。五日ぶん、私の手のかわりになることを、書けるだけ。
……考えながら歩いていたら、本館前の掲示板に、人だかりができていた。
貼り出されたばかりの、白い紙。殿下のおっしゃっていた、布告だ。
布告
一、王都の凶変に鑑み、本日より、学園全域に警戒態勢を布く。
一、生徒は門限を違えず、夜間の単独の出歩きを慎むこと。
一、不審の人、不審の事あらば、直ちに学園衛士または生徒会へ届け出ること。
一、警戒の解除まで、生徒会は学園衛士と協同し、自警の務めに当たる。
一、右の務めのため、本年度、生徒会に新たに三名を加える。名は、下に掲げる。
鈴蘭の月、十七日 学園長
「生徒会って……新入生の席は、ふたつのはずでしょう」
「毎年ふたりって、決まっているのに。今年は、みっつも?」
人垣がすこし動いて、掲げられた名前が見えた。
——私の、名前があった。
えっ、と声が出てしまった。
私、ですか……? 私なんかが、生徒会、だなんて。
……でも。役に立てることが、あるなら。
まわりの視線が、また、ちくりと刺さる。なんで、あの平民が、というひそめ声も。
ふたつめの名前に、ほっと息がゆるんだ。
——ジークハルト様。
いてくださるなら、心強い。それに、同じお務めなら、言い足りなかったお礼を、今度こそ、ちゃんとお返しできる。
「ジークハルト様が入ってくださるなら」という安堵の声も、あちこちで上がった。……私も、おんなじ気持ち。
そして、みっつめの名前。
——息が、止まった。
オフィーリア様。
人だかりの端で、誰かが小さく「……オフィーリア様?」とだけ言って、黙った。名前を口にするのも憚られる、みたいに。ざわめきが、一段、遠くなった。
そういえば。……さっき、殿下たちに聞かれた。あの方のことを。
あれは、なんの、お話だったんだろう。
私の名前。ジークハルト様の名前。それから——
どうして、あの方が。




