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第5話 わからないまま、守られていた

鐘の失われた鐘楼。その縁《ふち》に、もう人影はない。


白昼の騒乱へ、黒衣が一枚、落ちていく。


袖と裾が風をはらみ、夜の端切れのように翻る。人の形のまま、屋根並みの継ぎ目へ、まっすぐに小さくなっていく。


風がひとつ、塔を渡る。


そのあいだに、空は、空だけになっている。落ちていくものは、もう、どこにもいない。屋根も通りも、何も受け取らない。


通りでは、人波が渦を巻いている。中心ほど動けず、へりほど速い。へりから年寄りがこぼれ、子を抱いた母親が、背を丸めて、戸口から戸口へ遠ざかる。悲鳴は、鐘楼の高さまで、割れたまま昇ってくる。


渦の底には、赤毛の剣士の背中。両腕を広げ、寄せる波を受けて、押し返さない。白い祭服は人垣に呑まれて、鐘楼の高さからも、見えない。


通りを挟んだ長屋の棟、干し布の影に、黒衣が、もう、いる。


落ちる音も、降り立つ影もないまま、はじめからそこに畳まれていたかのように。白昼の屋根の上で、そこだけが夜の色をしている。


***


音が、割れていた。

たくさんの人が、いっぺんに叫んでいて、どの声も、もう言葉のかたちをしていない。悲鳴だけが、高く、短く突き抜ける。ときどき、毒、というかけらだけ、聞き分けられた。


腕の中で、小さな子が、丸くなっている。

いつつくらいの、女の子。もらったパンの切れ端を、両手で握って放さない。かじりも、しないで。靴は、大きすぎるのが片方だけ。


「だいじょうぶ。おねえちゃんが、ちゃんと、いますから」


押し合いは、波になって来る。押されて、よろけて、それでも、この子だけは落とさない。真ん中ほど、動けない。息が、浅い。

女の子は、泣くのも忘れた顔だった。


石が、ひとつ、飛んでくるのが見えた。

とっさに、この子へ覆いかぶさる。……ぶつからない。石は、届く手前で、ふいと逸れて、あらぬほうへ落ちた。

……風?

考える間もなく、次の波が来た。


気がつけば、あの女子生徒の姿が、近くにない。人波のどこかへ、はぐれてしまった。

無事でいて。……いまは、腕の中のこの子が先だ。


人垣が、内側から割れた。

女の人がひとり、転がるように出てくる。名前を呼ぶより先に、体が、こちらへ。……お母さんだ。


腕から腕へ、女の子を渡す。

頭、顔、腕、足。順番に、叩くみたいに触って、確かめていく。女の子は、その顔を見上げて——はじめて、泣いた。火がついたみたいに。

泣きながら、握っていたパンの切れ端を、お母さんの口もとへ押しつける。かじりも、しなかった、あのパンを。

お母さんは、座り込んだまま、何度も何度も、頭を下げた。下げるのは、私のほうなのに。


腕が、空いた。


目の前には、大きな背中がある。

ジークハルト様だ。両腕を広げて、波を受け止めている。押し返さない。ただ、受けている。低い声が、音の洪水の上を渡っていく。怒鳴っているのに、怖くない声。

この背中のうしろだけ、波が来ない。

……守られている。


でも。

人垣の向こうには、あの倒れた人がいる。私は、まだ、なにもできていない。


あの倒れた人を、治しに行かなきゃ。


***


人垣に、切れ目があった。

考えるより先に、体が抜けていた。ジークハルト様の背中に、心の中でだけ謝って。

肩と肩のあいだへ、体をねじ込む。押し戻されても、半歩ずつ、前へ。


倒れた人は、輪の真ん中にいた。

誰も、近寄らない。遠巻きの輪の上を、毒だ、触るな、うつるぞ、という声だけが回っている。


膝をつく。知らない男の人だった。体が、細かく震えている。


「大丈夫ですか。いま、楽にしますから」


「その手だ……その白い手が毒を撒くんだ!」


突きつけられた指に、息が、止まった。

この手は、朝からずっと、この街の人たちを治してまわった手だ。それを、毒だと——

……ひるんだのは、一瞬だけ。目の前で、この人は、いま苦しんでいる。


袖が、私の手から逃げる。

それでも。逃げた袖ごと、両手で包んだ。


光よ、どうか。

祈りは、ちゃんと灯った。白い光が、震える体に広がって——そして、するりと通り抜けた。


……ない。

毒が、ない。

塞ぐべき傷も、蝕む毒も、どこにもない。

どうして。だって、この人は、こんなに——

……わからない。わからないなら、楽になるまで、続けるだけ。


男の人の目が、泳いだ。

私を見ない。右へ、左へ、人垣の切れ目のほうへ。そんなに、私の光が、こわいのだろうか。


そのとき。

周りの声が、ふっと遠くなった。潮が引くみたいに。


石畳を蹴る音。目の前が、翳る。大きな背中が、割り込んでいた。


「マリア!! 伏せろ!! 手ぇ離していい、そのまま伏せてろ!!」


ジークハルト様の声だ。頭のすぐ上を、背中越しに飛んでいく。聞いたことのない声だった。

言われたとおり、伏せた。

手だけは、離さない。……ごめんなさい。これだけは。


「退がれェェェッ!!!」


腹の底から来る一喝に、世界がびりびりと鳴った。


それから。

金具の擦れる音。石畳を噛む靴の音。短い呻き。乾いた、硬いものが石畳に落ちる音。——どさりと、人の倒れる音。


ひと呼吸。ふた呼吸。

なにが起きているのか、ひとつも、わからない。

わからないまま、私はただ、手の下の光を、消さないことだけを考えていた。


***


人波の流れに、逆らわない男が、混じっている。


中背、痩身。肩と前腕だけが厚い。腰の帯は、緩んでいない。半身で隙間へ入り、誰ともぶつからずに、前へ出る。波が押せば止まり、引けば進む。


逃げる顔は、みな同じほうを向いている。男の顔だけが、揺れないまま、白へ向いている。


靴音が、ない。


赤毛の剣士は、首を振らない。目だけが、群衆の上を舐めていく。


その目が、止まる。波に揺れない、ただ一点で。


屋根の上——干し布の影で、黒衣が動く。


手が、上がる。


その手より、先に。


赤毛が、動いた。


背中越しに、吼える。


「マリア!! 伏せろ!! 手ぇ離していい、そのまま伏せてろ!!」


胸当てが、大きく持ち上がる。


「退がれェェェッ!!!」


近い者から、順に、声が消えていく。ざわめきが外へ薄れていき、途切れた。声のあった場所から人が下がり、人垣が左右へ割れて、石畳の道が、通りの真ん中にあらわれる。


押し合いは、波ごと止んでいた。静寂の底で、犬の遠吠えが、低い唸りに変わっている。どこかで、物干し竿が転がって——止まった。


屋根の上、黒衣の手が、宙で止まっている。五本の指が、何かを掴みかけた形のまま、動かない。


止まらないのは、ひとりだけだった。


割れた道を、足音のないまま、男が加速する。構えは低く、短い刃が、体の陰に沈んでいる。誰にも触れずに——今度は、まっすぐに。


赤毛の剣士が、両腕を畳む。守っていた正面を、半歩、捨てる。体ごと、刃の進路へ割り込む。


背の大剣には、触れもしない。左の籠手を、刃の道へ差し入れる。


刃は籠手の縁を滑り、上腕へ食い込んだ。袖に、色が滲む。


右手が、男の襟首を鷲掴みにする。


低く、声が落ちる。


「——触れさせるかよ」


男が、刃を引き抜く。手首を、返す。


赤毛が顎を引く。頭突きの型に入る——その途中で。


襟首から、重みが消えた。


指から刃がこぼれ、乾いた音を立てる。


男が、糸を刈られた操り人形のように、膝から崩れる。受け身は、ない。顔から、石畳へ落ちた。


人垣のへりで、誰かが短く悲鳴を上げ、それきり、黙った。


赤毛の剣士は、顎を引いた形のまま、一拍、動かない。


それから、靴底が、落ちた刃を遠くへ蹴る。爪先が、男を仰向けに返す。男は、白目を剥いたまま動かない。胸だけが、規則正しく上下している。


赤毛の剣士が、群衆へ向き直る。白のほうへは、振り返らない。


両腕が、また、広がった。


***


どさり、という音を最後に、世界が、しん、とした。

顔を、上げる。


——終わっていた。

なにが、終わったのかも、わからないまま。


人垣は、遠くまで下がっていた。石畳には、脱げた靴がみっつ、別々の方角に。潰れた籠から、施しのパンがひとつ転がり出て、土を吸っている。割れた水瓶から、細い水の筋。

手の下に、あの男の人は、もういなかった。いつ、袖が手の中から抜けたのかも、わからない。

かわりに少し先で、知らない男の人が、仰向けに倒れている。

その手前に、ジークハルト様の背中。左腕だけ、体のかげに回している。


ぽつ、と。

指の先から、石畳に、赤いものが落ちた。


気づいたら、駆け寄っていた。


「ジ、ジークハルト様、腕、腕が……!」


「おっ——おい、こら、騒ぐんじゃねえ! ほら見ろ、動く動く。大したことねえ」


腕を振ってみせた顔が、歪んでいる。ちっとも、大したことなくない。

手を伸ばす。ジークハルト様は、なにか言いかけて、私の目を見て——途中で、やめた。


「……あー、分かった。分かったから。……ちょっとだけだぞ」


戸口の段に腰を下ろし、腕の高さを私の手に合わせ、そっぽを向いて、腕だけを差し出してくる。


両手を重ねて、祈った。

光は、ちゃんと灯った。切れた肉が、内側から、静かに閉じていく。

——塞がる。

塞がる傷だ。それが、こんなに、ありがたい。なのに、指の震えだけは、最後まで止まってくれなかった。


「……言っとくがな。これはお前のせいじゃねえ。刃物持ち出した野郎が悪い。それだけの話だ。……だから、そんな顔すんな」


そっぽを向いたままの、低い声だった。

それから、治った腕を、握って、ひらいて、確かめて。聞こえるか聞こえないかの声が、言った。


「……悪ぃ。助かった」


蹄の音が聞こえたのは、そのときだった。

石壁に響いて、どちらから来るのか、方角が掴めない。短い呼子がひとつ——通りの角から、学園衛士の制服の列が現れた。先頭の、金褐色の髪。……殿下だ。


「——静まれ。王太子レオンハルトだ。この場は、王家の名において、私が預かる。倒れた男の身柄も、王家が預かる。誰も、手を出すな」


通りの端まで目だけを走らせて、殿下は低くおっしゃった。


「——衛兵は、どこにいた」


誰も、答えなかった。


ざわめきが、引き波みたいに遠のいていく。あちこちで、石の落ちる音がした。

動けない人たちが、衛士の手で、壁際へ運ばれていく。


列のあいだから、あの女子生徒が駆けてきた。無事でよかった、と言うより先に、ふたりで、同じ言葉になった。……この子が、殿下を呼んできてくれたのだ。目の縁が、熱くなる。


倒れた男の人のそばには、いつのまにか、灰色のローブ。カイル様だ。

手巾を巻いた指で首筋に触れ、帳面になにか書きつけて——落ちていた短刀に布をかぶせて拾い、袖にしまった。


「あなたの一喝は、人を昏倒させるほど強くありませんよ。……誰が、倒した?」


ジークハルト様への、問いだった。答えは、聞こえてこなかった。

カイル様は帰りぎわ、私の前で、半歩だけ足を緩めた。


「——無事で、何よりです」


返事を待たずに、行ってしまった。


殿下は、手帳に書きつけながら、顔も上げずにおっしゃった。


「飛ばした手続きの分は、誰かが払う——言った通りだ。今日の払い手は、私にしてある。そのための、私の名だ」


それから、まっすぐに私を見た。


「マリア。よく保った。——あとは、私の仕事だ。座れ」


はい、と言えたと思う。……ごめんなさい、殿下。膝をつくのは、座るためじゃ、なくて。

壁際には、手当てを待つ人たちがいる。さっきまで、私の列に並んでいてくれた、あの人たちだ。


耳の奥では、まだ、あの声がしている。

——誰が、倒した?

わからない。なにが起きたのか、私は、見てさえいない。

わからないまま、守られていた。それだけは、わかる。

それでも。

光はもう薄いけれど、まだ——祈れる。


***


跳んだ女の落ち着き先は、結局、また屋根の上だ。

降りてから戻るまで、指一本、表に出さず仕舞い。……ずいぶんと慎ましい災いですこと。


眼下では、渦が、引きはじめている。

制服の列が、騒ぎの残りを手際よく畳んでいく。その真ん中に、白がひとつ。

生きて、動いている。相変わらず、休む気もなしに、次の傷へ。


石ころが、ひとつ。風で、足りた。

……跳んだぶんの帳尻は、それで合っている。


また、彼だ。

上げた手より、赤毛の背中が先だった。宙で止まった手は、まだ、下ろしどころがない。


検分表に、追記。腕も、可。

……行が増えるのが、癪。


それでも。私の出られない日なたに、あの子を守るものが、ひとつ立っている。

妬心の隣に、安堵が座っている。……相席を許した覚えは、ないのだけれど。


持ち越した答え合わせを、ひとつ。

あの頁の火は、これで済んだ——のかしら。

なら、火を買った、あのお金の主は。

脚本《シナリオ》にとって、もう、用済み。


数えるものは、数えた。今日の死人は——ひとりも、ない。

喰われるのも、燃えるのも、私の手の外は、みんな同じ。記せない終わりは、二度と拾えない。

……この街で命を仕舞っていいのは、私だけ。その席は、お金では買えない。


付けが、まだある。

あの子に、刃。

雇ったお金の出どころは、調べるまでもない。……火と、同じ財布。


夜の装いは、着たままだ。ちょうどいい。


——訃報の頁を、めくりに行きましょう。


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