第4話 いい席ですこと
鐘の失われた鐘楼に、今日も同じ席を取る。装いは昨日のまま、夜のもの。黒いフードの下で、あの子の朝を待っている。
二日続けてのお参りとは、ずいぶんな信心ですこと。
街へ音を配るための塔だ。器は残る。街の声は、ここまでよく昇ってくる。
眼下の通りには、もう列が伸びている。昨日より早く、昨日より長い。学園から来た治癒の娘の話が、ひと晩で、この街の路地の隅々まで駆け抜けたらしい。
やがて橋のほうから、白がひとつ、近づいてくる。連れは昨日と同じ、給費生の子。
列が、ざわりと明るくなる。
誰ひとり、あの子と約束を交わしてなどいない。それでも街は、朝から並んで待っていた。あの子が、今日も来るほうへ。……目が高いこと。
あの子は、来ると決めたら来る。倒れても、這っても来るのだ。そういう子だと、私は誰より古くから知っている。
今日も、頁にない灯りがともる。
フードの下でなら、どれだけ見蕩れていても、誰にも知られない。つくづく、いい席だ。
***
さて。見蕩れる目は仕舞って、仕事にかかる。
屋根、路地、物陰。通りの検分は、異物から順に数えていく。
真っ先に引っかかったのは、通り向かいの積み樽の陰の、呆れるほど大きな影だった。
隠れているつもりらしい。つもり、だけだ。樽から肩がはみ出し、覆いもない頭の赤い毛が、朝日を素直に照り返している。
……赤毛。
昨日は、いなかったくせに。
おおかた、あの子の不在にようやく気づいた口だろう。それにしても、二日目。……遅い。
言わせてもらえば、この街の朝は、私のほうが一日ぶん古い。
素性がなんであれ、あの子のそばの異物は異物だ。目は離さない。
ところが——赤毛は、動かない。
列に近づかない。名乗りもしない。あの大股なら、まっすぐ突っ込むだろうに、樽の陰から、ただ見ている。
あの子は、気づく様子もない。目の前の咳と傷とで、手一杯なのだろう。
よく見れば、立ち位置だけは選んである。列に粗い気配が混じれば、すぐに割って入れる間合い。隠れかたは素人。位置取りは、素人なりに、正しい。
……あら。
あの子を、黙って守る側の人間が、私のほかにもいたらしい。
気に入ったわけでは、ない。好き嫌いではなく、これは配置の話だ。
それでも、頭のなかの検分表のいちばん下に、余計な一行が増えてしまった。
赤毛。位置だけは、可。
***
検分の、続き。
数えるほどに、違和がひとつずつ溜まっていく。
まず、昨日の犬がいない。
壁にもたれて指を折っていた、あの男。せっかく顔を覚えてやったのに、今朝はどこにもいない。
かわりに、新しい犬が数匹。粗い面構えが列の外れにばらけて、並ばない。受け取らない。目だけが、列とあの子のあいだを行き来する。
次に、見回りの衛兵が来ない。
見回りは、この街でも日に一巡はある。昨日、この席で見ている。今日は日が高くなっても、影も形もない。
犬を入れ替えたのと同じ朝に、衛兵だけがそろって休む。そんな偶然は、ない。
消えたのではない。買われた。
それから、風が切れ端を運んでくる。
「タダの施しなんてのはよ、裏があるもんだぜ」
「あの光は紛いもんさ。あとで、かえって毒が回るんだと」
囁き手は、並びも受け取りもしない口。新しい犬たちと同根の手際で、列のそばに種を蒔いて歩く。
礼もそこそこに、列から抜ける背中が出はじめた。
これは、仕組まれた火だ。段取りの継ぎ目から、お金の匂いがする。
あの子の光とパンが、誰かの稼ぎ口を塞いだ。昨日の犬の指折りは、その帳簿づけだったのだ。
さて、誰のお金かしら。
頁をそらんじた頭が、勝手に答えの棚へ伸びる。
……ああ。そういう、こと。
通りの温度が、変わりはじめている。
恩を見る目と、それを疑う目が、同じ列のなかで隣り合っていく。
火は、まだ見えない。煙の匂いだけが、先に立ちはじめている。
***
列の外れでは、まだ毒が煮えている。それを聞き取ったように、先頭で、あの子が立ち上がった。並ぶ人たちへ、向き直る。
「お待たせして、ごめんなさい。順番に、必ず——……ぜんぶ、回ります。今日も、日が暮れるまで、ここにいますから」
張った声は、ここまで届く。「必ず」の先で一拍止まって、言い換えたのも。
——大きな影が動いたのは、その直後だった。
樽の陰から、赤毛が出る。こそこそとは程遠い。通りのど真ん中を、大剣の金具を鳴らして歩き、並ばない犬たちの視線を正面から受け返す。道を塞ぐひとりは、目の高さのひとことで、退いた。
頁のひとつも読めない男が、空気の煮えはじめを、皮膚で正しく嗅いだのだ。
……検分表に、追記。勘も、可。
列の先頭、あの子の横。栓を抜いた水筒を、突き出す。あの子は両手を振って、睨まれて、両手で受け取った。唇が、彼の名前のかたちに動く。
それから赤毛は、頭をがしがし掻きながら、なにか白状している。尾行の自己申告だろう。深いおじぎがふたつ、返っていた。
応えも待たず、赤毛は踵を返して、犬たちとあの子のあいだに立ち、腕を組む。
「並んでる奴から順番だ! ——並ぶ気のねえ奴は、下がってな」
囁きの流れた方角へ、半歩——止めた。かわりに、声だけを飛ばす。
「——毒だぁ? 寝言は治してもらってから言え。こいつの光で立って帰った奴を、俺は朝から何十人も見てんだ」
囁きが、引いた。
あの子の肩から、力が抜ける。それから、そっと赤毛の袖の端をつまんで、遠巻きの人だかりへ目をやった。追い返さないであげて、の願いだろう。
低いやり取りが、ひとつ。あの子は列を長屋の角まで、数えるように見渡して、まっすぐ頷き返した。
最後のひとことは、届かなかった。あの子のおじぎが途中で止まり、上がった顔が——笑っていた。
作っていない顔で。あの朝からこちら、一度も見なかった顔で。
正面から名前を呼んで、水を渡して、隣に立てるのは、彼だけだ。
彼は、物陰から日なたへ、三歩で出て行ける。私は、出られない。私の席は、あの子の目の届かない高さにしか、ない。
あのときは、慰めが効かないことに、暗いものがほころんだ。今日は、支えが効いている。
——それが、こんなに。
***
妬心の帳尻は、あとで合わせる。いまは、先にやることがある。
火が付く前に、頁を検める。慌てないのが、淑女の嗜みですわ。
あの子から目は離さないまま、頭のなかだけで、書庫をひらく。
そらんじた頁を、日付から引く。今日。この街。この、仕組まれた火。
……ない。
めくる。前へ、後ろへ。近い日付、似た筋、書き損じの隅まで。
——ない。どこにも、ない。
頁に、この騒動はない。
書かれたことが、書かれたとおりに起きていく。私の世界は、昨日まで、そういう場所だったのに。
あるのは、ひとつだけ。ずっと先の日付に、この街が燃える日の頁。
けれど、あれはこんなものではない。もっと惨く、もっと広く燃える火だ。桁が、ちがう。
頁の火は、書かれた日付の外からでも、点けられる。
……それを、私は知っている。この世界の、誰よりもよく。
なら、これは——あの頁の、前倒し?
点けた手は、頁も知らない犬たち。日付をめくったのは——犬の火か、私の起こした風か。
それにしては。
……小さい。
あの頁の火は、街ひとつを呑む。眼下にあるのは、通りひとつぶんの、きな臭さ。規模が、合わない。なにかが、ずれて——
考えるのは、あと。
ずれの正体より先に、動かせないものをひとつ、思い出してしまったから。
日付の外の小さな火なら、いくらでも摘んできた。頁にない火は、摘めば消える。
頁に根を張った火は、消せない。燃え広がり方は変えられても、燃え落ちること自体は、変えられない。根を張った火は、書かれたところまで、必ず燃える。
その渦の真ん中に、いま、あの子がいる。
大丈夫。あの子は死なない。脚本は、あの子を殺さない。この頁にもまた、あの子の死は書き込めない——はず。
……はず。
指先が、冷えていく。頁を繰るときの冷えとは、ちがう冷えかたで。
その二文字を、あの子に賭けたことは、一度もない。
***
口火は、列を離れた男だった。
治療を受け、礼まで言って、十歩。腹を抱えて崩れ、転がって、呻いてみせる。
倒れる寸前、そいつは一度だけ、あたりを見回した。……観客の頭数を、数えたのだ。下からは見えない粗が、この席からは、よく見える。
そばの男が駆け寄り、抱き起こして、声を張った。
「この人、さっき治療を受けたばかりだぞ! ——治療のあとで、倒れた!」
人垣の輪が、ひとつできる。
応じる火は、離れた二点から、同時に上がった。毒だ、あの光は体に毒だ、と列の中程で。タダの施しに裏がないわけがない、あれは紛いもんだ、と後方で。
……自然の火は、一点から広がる。二点から同時に立つ火は、置いた火だ。
言い返す声も、すぐに立つ。この手を治してもらった、と手を高くかざす男。人垣が、恩と疑いの二色に割れて、肩のぶつかる距離まで煮詰まっていく。
最初の手は、犬の側から出た。人垣を割って、言い返した男の胸ぐらを掴む。怒声、悲鳴。渦が、ふたつ、みっつ。へりから、年寄りと子連れが、こぼれるように逃げはじめる。
白がひとつ、倒れた男のほうへ動こうとして、人垣に阻まれた。……治しに行く気だ、あの子は。仕込みの毒へ、本物の光を。
衛兵は、来ない。これだけの騒ぎに、呼子ひとつ鳴らない。昨日、見回りの通った角に、やはり影も形もない。止め手の不在を、群れが肌で覚えていく。遠慮の箍が、外れていく。
空白が、火を育てる。
最初の石は、荷車の陰から出た。
あの子のそばの長屋の戸板に当たって、砕ける。投げた腕の出どころは群衆の陰——下からは、誰にも見えない。この席からだけ、見えた。
ふたつ目。みっつ目。もう、出どころがばらけている。投げる手は、犬のものではなくなった。火が、燃え移ったのだ。
白が、近くの子どもを腕の中にかばい、低くなる。……白が、小さくなる。
声と声が溶けて、ひとつの咆哮になる。言葉が意味を落として、音だけが残る。群れの輪郭が、ひとつの生き物のようにうねりだす。人の群れが、獣になっていく。
その鼻先へ、赤毛が大股に割って入り、押し返さず、背中と両腕で、あの子の前の堰になった。人波が、そこでいったん割れる。
給費生の子が、人波に押されてあの子から剥がれ、橋のほうの路地の口へ。振り返って、白を探している。……無事では、ある。
——どこかで、ひとりが倒れた。
その上へ、人が折り重なる。堰を越えた水のように、人波が長屋の前へ雪崩れて。
白が。
あの子の白が、人波に呑まれて、見えなくなった。
その外周を、流れと逆向きに、落ち着いた足取りで抜けていく背中が、ふたつ。
……火付けは、燃えはじめたら、帰るものだ。
***
前倒しの火か、頁の外の火か。
——どちらでも、いい。
答え合わせは、あとでいい。頁は、逃げない。
頁のとおりなら、ここで見ているのが役だ。動けば、また風が起きる。めくるものも、知りながら。
それでも——あの子の白が見えない高みに、座る理由は、ひとつもない。
決めるのに、息ひとつ要らなかった。……迷いのないこと。
眼下で、獣の背がうねっている。あの白まで、いちばん速い道は、まっすぐ下。
塔の縁を、蹴る。
白昼の騒乱へ、夜のものが一枚、落ちていく。
——私だ。




