表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/5

第3話 「必ず」は、つけない

「マリアさん。……妹の咳が、ひと月まえから、止まらないんです」


放課後の教室に、残っていたのはふたりだけだった。

私と——深々と頭を下げる、着古した制服の女子生徒。同じ学年の給費生で、話すのはこれが初めてだった。

返事まで、一拍かかった。このごろの私は、なんでも、すこし遅れる。


「妹は、八つです。……ここのところ、咳のあいまに、ひゅう、って笛みたいな音がするんです」


そこで一度、言葉を切って、唇を噛んだ。


「薬屋の咳止めは、ひと瓶で、家賃のふた月ぶんで……買えません。マリアさんの光は、病気にも効くって聞きました。お礼は、いつか働いて、必ず——」

「行きます。いま、すぐ」


考えるより先に、体が動いていた。あの朝から、初めてのことだった。


「ま、待ってください。……妹だけじゃ、ないんです」


女子生徒が、あわてて顔を上げる。耳まで赤かった。スカートの脇を、ぎゅっと握っていた。


「咳の音のする戸が、通りに増えつづけてるんです。年寄りと小さい子から、順番に弱っていく。なのに、あたし……わたし、自分の家のことだけお願いに来てしまって。……ずっと、申し訳なくて」


ひとりじゃ、足りない。

……咳がひとつなら、この手で足りる。街の全部が咳をしているなら、要るのは、たくさんの手だ。私の手だけじゃ、なくて。


「……生徒会に、お願いに行きましょう。いっしょに」


***


その足で、本館へ渡った。隣を歩く靴音は、最後まで硬かった。

生徒会室の扉は、思ったより、ずっと重かった。中には、殿下と、窓際のカイル様。


約束もなく押しかけて、順番も飛ばした、ひどいお願いだったと、自分でも思う。それでも殿下は一度も遮らず、区画は、戸数は、と短く問いながら、手ずから書き留めていった。


「——事情は、わかった。学園の名で動くには、手続きが要る。城へ具申する。一週間で、通す」


それより早くは、と聞きかけた私に、殿下は短く言った。


「ならない。——飛ばした手続きの分は、あとで、別の誰かが払う」


それから、女子生徒へ目を移した。


「よく知らせた」


その子が、泣きそうな顔で、深く頭を下げた。

カイル様は、最後まで口をきかなかった。一度だけ、前髪の奥の目がこちらへすべり、一瞬止まった。


別れぎわに、ひとつだけ約束した。


「明日の朝、妹さんのところへ、案内してください」


ひとりになった廊下で、思った。

殿下は、正しい。ちゃんと聞いて、書き留めて、期限まで切ってくださった。


……あの村でも、私は言ったのだ。

必ず朝に戻ります、と。残る人たちの手を、ひとりひとり握って。

そして朝は、間に合わなかった。

一週間は——長すぎる。


***


その夜も、眠れなかった。

じっとしていると、夜が静かになりすぎる。その底で、あのときのなにかが、耳の奥で頭をもたげようとする。考えない。思い出さない。かわりに今夜は、聞いたばかりのあの通りを思い描いて、咳の音のする戸を数えていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。……数えるそばから、戸は増えていく。


……おかしい。まだ、なにひとつ、じかに聞いていないのに——もう、耳の奥で鳴っている気がする。ひゅう、という、細い笛の音が。

わかってしまった。

あの咳は、一週間、待ってくれない。


妹さんのところへは、明日の朝、行く。でも——妹だけじゃないんです、と、その子は言った。

手はふたつ。財布は軽い。光は、病を治しきれない。それでも——なにもしないで待つよりは。

なら、持てる全部を持って、みんなのところへ。


「必ず」とは、もう言わない。私には、重すぎる言葉だから。ただ。

今度は、間に合ううちに。


翌日は、授業のない日だった。炊き出しが終いになったらしい、という噂は、学園でも聞いていた。だから、かごには、パンを詰められるだけ詰めた。包帯も、財布も、まるごと。

夜明けの鐘のすぐあと、寮を出た。きのうの別れぎわに決めた街角には、あの女子生徒が待っていた。朝の王都を、西へ、西へ。


……あの朝を、忘れたわけじゃ、ない。ただ、歩いているあいだだけ、ちゃんと息が吸えた。


***


道は、橋を渡るたびに細くなった。

石畳が途切れて、土になる。家々が低く、傾いて、肩を寄せ合う。


空き地の隅に、石積みの竈がふたつ。火の気はなく、灰は白く冷えきっていた。

竈の口を、痩せた子が覗き込んでいた。なにも、出てこないのに。


「……炊き出しが終わったって、聞いたのは……ほんとうだったんですね」


女子生徒は、小さく頷いた。

私は、かごの持ち手を、握り直した。


戸の奥から、路地の奥から、咳の音がした。……こんなに、だったのだ。


妹さんのいる家は、傾いた長屋のいちばん端だった。

薄い布団に、小さな女の子が寝ていた。浅い息。吸うたびに、胸の奥で、ひゅう、と細い笛の音がする。


「こんにちは。……失礼、しますね」


小さな胸の上に、そっと手を重ねる。

光よ、どうか。


祈りは、ちゃんと灯った。白い光が、その体に広がっていく。

ひゅう、という音が、すこし遠くなる。息が、ひとつぶん、深くなる。

——でも。

胸のいちばん奥で、なにかが、まだ鳴っている。光はそこまで届いて——届くだけで、すべって戻ってくる。


もう一度。二度、三度。

……同じだった。咳の芯は、小さくなって、消えない。


傷なら、塞がるのに。

切り傷でも折れた骨でも、繋げるのに。病だけは、緩めることしか、できない。

教わってはいた。……教わるのと、思い知るのとは、まるでちがう。


女の子が、目をひらいた。私を見上げ、ふにゃりと笑う。


「おねえちゃんの手、あったかい」


一瞬、指が止まった。

……なんでも、ない。


「よく、言われます」


私は、ちゃんと笑えたと思う。

女の子の頬に、すこしだけ色が戻っていた。治ってなんか、いないのに。楽になった、それだけで、人はこんな顔をするのだ。


この顔を。

もっと、たくさん。もっと、多くの人に。


***


鐘の失われた鐘楼は、いい席だった。われながら、罰当たりな席ですこと。

私の装いは、夜のもの。黒いローブに深いフード、目元には黒の面紗ヴェール。この街で動くなら、夜の名前で動く。


あの子のいる長屋の、隣の戸から、女がひとり、転がるように走り出ていった。

やがて、ひとり、またひとり。長屋の前に、列が伸びていく。あの子はひとりずつ手を取り、白い光を配ってまわる。この街が冷えるのは、頁のとおり。そこへ、頁にはない灯りが、ともっている。


眩しい。

……知らない誰かへの笑顔を、数えて妬いている私も、いる。小さくて、醜い。わかっている。


——余計なものが、ひとつ。

路地の陰、壁にもたれた男。列に並ばない。施しも受けない。目だけが、あの子の背中を測っている。値踏みの目で、ときどき、指を折る。

誰の犬かしら。

……顔は、覚えた。いまは、動かない。あの子の一日に、染みはつけない。

あの子を守るのは——私だ。


***


列は、昼を過ぎても、途切れなかった。

咳の子を背負ったお母さん。手のひらの膿んだ、荷運びのお兄さん。私は、ひとりずつ手を取って、祈った。


傷は、治った。膿んだ手のひらは、光の下で綺麗に塞がった。

病は——緩んだ、だけ。それでもみんな、軽くなった、と言って、おじぎをして帰っていく。


かごのパンは、列の半分で消えた。財布の中身は女子生徒に渡して、あるだけパンに換えてきてもらう。ひと瓶の咳止めには、どうせ届かないお金だ。

足りない。まるで、足りない。


治った手のひらを日にかざして、笑う人がいた。息が深く吸える、と泣き出すおじいさんがいた。

その声をひとつ聞くたび、私の胸まで、すこし軽くなった。


日が、傾いた。

祈るたび、光が薄くなっていく。指先が、震えはじめている。


「今日は、ここまでに、させてください。……ごめんなさい」


列に残った人たちに、頭を下げた。

誰も、なじらなかった。仕方ねえや、と誰かが笑って、列は、静かにほどけていった。……それが、いちばん、こたえた。


街の出口まで、女子生徒が送ってくれた。妹さんを、あったかくしてあげてね。そう言うと、その子は、何度も、何度もおじぎをした。


***


誰にも呼び止められず、寮の部屋へ戻る。扉を閉めて、やっと息をつく。

……ちゃんと、帰ってきた。なにごとも、なく。

かごは、空っぽ。財布も、空っぽ。足は棒みたいで、指先は、まだ痺れている。

それなのに、今夜は、眠れる気がした。あの朝から、初めて。


目をつぶると、あったかい、と笑った顔が浮かぶ。それから——日暮れに、ほどけていった、あの列。


私の手は、ふたつしかない。パンは、かごひとつぶんだけ。光は、日暮れまでしか、もたない。

ひとりでは——全然、足りない。

殿下の一週間は、きっと来る。それまでのあいだを、誰かが繋がないと。いちばん近くで、あの咳を聞いてしまったのは、私だ。


明日の支度をしよう。パンは、また食堂で。財布は空っぽだけれど——この手と、この光は、ただだから。


窓を開ける。王都の西、低いほうの街に、灯りはまばらにしか、ともらない。

あの暗がりのどこかで、いまも、あの細い笛の音が鳴っている。

だから窓の向こうへ、誰にも届かない小ささで、声に出して言う。「必ず」は、つけない。つけないまま、守る。

待っていてください。それから——約束の、続きを。


「明日も、来ます」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ