第3話 「必ず」は、つけない
「マリアさん。……妹の咳が、ひと月まえから、止まらないんです」
放課後の教室に、残っていたのはふたりだけだった。
私と——深々と頭を下げる、着古した制服の女子生徒。同じ学年の給費生で、話すのはこれが初めてだった。
返事まで、一拍かかった。このごろの私は、なんでも、すこし遅れる。
「妹は、八つです。……ここのところ、咳のあいまに、ひゅう、って笛みたいな音がするんです」
そこで一度、言葉を切って、唇を噛んだ。
「薬屋の咳止めは、ひと瓶で、家賃のふた月ぶんで……買えません。マリアさんの光は、病気にも効くって聞きました。お礼は、いつか働いて、必ず——」
「行きます。いま、すぐ」
考えるより先に、体が動いていた。あの朝から、初めてのことだった。
「ま、待ってください。……妹だけじゃ、ないんです」
女子生徒が、あわてて顔を上げる。耳まで赤かった。スカートの脇を、ぎゅっと握っていた。
「咳の音のする戸が、通りに増えつづけてるんです。年寄りと小さい子から、順番に弱っていく。なのに、あたし……わたし、自分の家のことだけお願いに来てしまって。……ずっと、申し訳なくて」
ひとりじゃ、足りない。
……咳がひとつなら、この手で足りる。街の全部が咳をしているなら、要るのは、たくさんの手だ。私の手だけじゃ、なくて。
「……生徒会に、お願いに行きましょう。いっしょに」
***
その足で、本館へ渡った。隣を歩く靴音は、最後まで硬かった。
生徒会室の扉は、思ったより、ずっと重かった。中には、殿下と、窓際のカイル様。
約束もなく押しかけて、順番も飛ばした、ひどいお願いだったと、自分でも思う。それでも殿下は一度も遮らず、区画は、戸数は、と短く問いながら、手ずから書き留めていった。
「——事情は、わかった。学園の名で動くには、手続きが要る。城へ具申する。一週間で、通す」
それより早くは、と聞きかけた私に、殿下は短く言った。
「ならない。——飛ばした手続きの分は、あとで、別の誰かが払う」
それから、女子生徒へ目を移した。
「よく知らせた」
その子が、泣きそうな顔で、深く頭を下げた。
カイル様は、最後まで口をきかなかった。一度だけ、前髪の奥の目がこちらへすべり、一瞬止まった。
別れぎわに、ひとつだけ約束した。
「明日の朝、妹さんのところへ、案内してください」
ひとりになった廊下で、思った。
殿下は、正しい。ちゃんと聞いて、書き留めて、期限まで切ってくださった。
……あの村でも、私は言ったのだ。
必ず朝に戻ります、と。残る人たちの手を、ひとりひとり握って。
そして朝は、間に合わなかった。
一週間は——長すぎる。
***
その夜も、眠れなかった。
じっとしていると、夜が静かになりすぎる。その底で、あのときのなにかが、耳の奥で頭をもたげようとする。考えない。思い出さない。かわりに今夜は、聞いたばかりのあの通りを思い描いて、咳の音のする戸を数えていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。……数えるそばから、戸は増えていく。
……おかしい。まだ、なにひとつ、じかに聞いていないのに——もう、耳の奥で鳴っている気がする。ひゅう、という、細い笛の音が。
わかってしまった。
あの咳は、一週間、待ってくれない。
妹さんのところへは、明日の朝、行く。でも——妹だけじゃないんです、と、その子は言った。
手はふたつ。財布は軽い。光は、病を治しきれない。それでも——なにもしないで待つよりは。
なら、持てる全部を持って、みんなのところへ。
「必ず」とは、もう言わない。私には、重すぎる言葉だから。ただ。
今度は、間に合ううちに。
翌日は、授業のない日だった。炊き出しが終いになったらしい、という噂は、学園でも聞いていた。だから、かごには、パンを詰められるだけ詰めた。包帯も、財布も、まるごと。
夜明けの鐘のすぐあと、寮を出た。きのうの別れぎわに決めた街角には、あの女子生徒が待っていた。朝の王都を、西へ、西へ。
……あの朝を、忘れたわけじゃ、ない。ただ、歩いているあいだだけ、ちゃんと息が吸えた。
***
道は、橋を渡るたびに細くなった。
石畳が途切れて、土になる。家々が低く、傾いて、肩を寄せ合う。
空き地の隅に、石積みの竈がふたつ。火の気はなく、灰は白く冷えきっていた。
竈の口を、痩せた子が覗き込んでいた。なにも、出てこないのに。
「……炊き出しが終わったって、聞いたのは……ほんとうだったんですね」
女子生徒は、小さく頷いた。
私は、かごの持ち手を、握り直した。
戸の奥から、路地の奥から、咳の音がした。……こんなに、だったのだ。
妹さんのいる家は、傾いた長屋のいちばん端だった。
薄い布団に、小さな女の子が寝ていた。浅い息。吸うたびに、胸の奥で、ひゅう、と細い笛の音がする。
「こんにちは。……失礼、しますね」
小さな胸の上に、そっと手を重ねる。
光よ、どうか。
祈りは、ちゃんと灯った。白い光が、その体に広がっていく。
ひゅう、という音が、すこし遠くなる。息が、ひとつぶん、深くなる。
——でも。
胸のいちばん奥で、なにかが、まだ鳴っている。光はそこまで届いて——届くだけで、すべって戻ってくる。
もう一度。二度、三度。
……同じだった。咳の芯は、小さくなって、消えない。
傷なら、塞がるのに。
切り傷でも折れた骨でも、繋げるのに。病だけは、緩めることしか、できない。
教わってはいた。……教わるのと、思い知るのとは、まるでちがう。
女の子が、目をひらいた。私を見上げ、ふにゃりと笑う。
「おねえちゃんの手、あったかい」
一瞬、指が止まった。
……なんでも、ない。
「よく、言われます」
私は、ちゃんと笑えたと思う。
女の子の頬に、すこしだけ色が戻っていた。治ってなんか、いないのに。楽になった、それだけで、人はこんな顔をするのだ。
この顔を。
もっと、たくさん。もっと、多くの人に。
***
鐘の失われた鐘楼は、いい席だった。われながら、罰当たりな席ですこと。
私の装いは、夜のもの。黒いローブに深いフード、目元には黒の面紗。この街で動くなら、夜の名前で動く。
あの子のいる長屋の、隣の戸から、女がひとり、転がるように走り出ていった。
やがて、ひとり、またひとり。長屋の前に、列が伸びていく。あの子はひとりずつ手を取り、白い光を配ってまわる。この街が冷えるのは、頁のとおり。そこへ、頁にはない灯りが、ともっている。
眩しい。
……知らない誰かへの笑顔を、数えて妬いている私も、いる。小さくて、醜い。わかっている。
——余計なものが、ひとつ。
路地の陰、壁にもたれた男。列に並ばない。施しも受けない。目だけが、あの子の背中を測っている。値踏みの目で、ときどき、指を折る。
誰の犬かしら。
……顔は、覚えた。いまは、動かない。あの子の一日に、染みはつけない。
あの子を守るのは——私だ。
***
列は、昼を過ぎても、途切れなかった。
咳の子を背負ったお母さん。手のひらの膿んだ、荷運びのお兄さん。私は、ひとりずつ手を取って、祈った。
傷は、治った。膿んだ手のひらは、光の下で綺麗に塞がった。
病は——緩んだ、だけ。それでもみんな、軽くなった、と言って、おじぎをして帰っていく。
かごのパンは、列の半分で消えた。財布の中身は女子生徒に渡して、あるだけパンに換えてきてもらう。ひと瓶の咳止めには、どうせ届かないお金だ。
足りない。まるで、足りない。
治った手のひらを日にかざして、笑う人がいた。息が深く吸える、と泣き出すおじいさんがいた。
その声をひとつ聞くたび、私の胸まで、すこし軽くなった。
日が、傾いた。
祈るたび、光が薄くなっていく。指先が、震えはじめている。
「今日は、ここまでに、させてください。……ごめんなさい」
列に残った人たちに、頭を下げた。
誰も、なじらなかった。仕方ねえや、と誰かが笑って、列は、静かにほどけていった。……それが、いちばん、こたえた。
街の出口まで、女子生徒が送ってくれた。妹さんを、あったかくしてあげてね。そう言うと、その子は、何度も、何度もおじぎをした。
***
誰にも呼び止められず、寮の部屋へ戻る。扉を閉めて、やっと息をつく。
……ちゃんと、帰ってきた。なにごとも、なく。
かごは、空っぽ。財布も、空っぽ。足は棒みたいで、指先は、まだ痺れている。
それなのに、今夜は、眠れる気がした。あの朝から、初めて。
目をつぶると、あったかい、と笑った顔が浮かぶ。それから——日暮れに、ほどけていった、あの列。
私の手は、ふたつしかない。パンは、かごひとつぶんだけ。光は、日暮れまでしか、もたない。
ひとりでは——全然、足りない。
殿下の一週間は、きっと来る。それまでのあいだを、誰かが繋がないと。いちばん近くで、あの咳を聞いてしまったのは、私だ。
明日の支度をしよう。パンは、また食堂で。財布は空っぽだけれど——この手と、この光は、ただだから。
窓を開ける。王都の西、低いほうの街に、灯りはまばらにしか、ともらない。
あの暗がりのどこかで、いまも、あの細い笛の音が鳴っている。
だから窓の向こうへ、誰にも届かない小ささで、声に出して言う。「必ず」は、つけない。つけないまま、守る。
待っていてください。それから——約束の、続きを。
「明日も、来ます」




