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第2話 いい朝ですわ

あの子より先に、噂のほうが帰ってきた。

わたくしは教室の窓際で扇を開き、縦ロールの先を直すふりをして、聞くともなしに聞いている。

曰く、国境の村を、黒衣の魔女が救った。

曰く、その村に残った者は、朝にはひとり残らず死んでいた。

二枚看板の噂だ。貴族にとって噂は天気と同じ。耳に入るものを、拒む作法がないだけ。

出どころは、ふたつ。町へ逃れた村人たちの証言と、王家が村を封じたという貴族筋の手紙。前者は「救い手の魔女さま」を語りたがり、後者は「重要事件」という硬い言葉で口をつぐむ。手配書は、まだ出ていない。呼び名さえ定まらない。主流は「黒衣の魔女」。貧民街の出の給費生たちは、小さく「魔女さま」。絹の席は、扇の陰で「例の魔女」。

当のご一行は、避難した村人たちへ死の報せを届け終え、封鎖を騎士団へ引き継いで、今日の昼に四人そろって帰着の予定。それも、手紙にあった。


「残った者は皆殺しですって。とんだ救い手ね」

「……魔女さまは、村を救ったんだ」


前のは絹の席から、後のは教室の隅から。すれ違ったまま、どちらも拾われない。昔の「花の死体」の話とおんなじだって、と尾ひれを継ぐ声もある。知らないけど、と付け足して。

話題は、ときどきわたくしへも飛び火する。曰く、オフィーリア様に扇で打たれた子がいるらしい。あら、初耳。打った覚えも、打たれた子の名前も、どこにもないのに、話だけがよく太る。

結構なことですわ。わたくしの評判は、夜のわたくしの評判と、同じ餌で育つ。


噂は、もうひとつ。王都の、日の当たらない一角。貧しい者たちへの炊き出しが、今日で終いになるらしい。面倒が増えるな、と欠伸まじりの声。それきり、続きはない。

あの報せだけは、聞いたそばから、夜のわたくしの帳面へ仕分けておく。あの一角は、これから冷える。

頁に書かれていたことが、書かれていたとおりに起きていく。恋のはじまりも、施しの終わりも——いつ、どこで、なにが起こるのかも、脚本シナリオには全部書いてある。

転生、というものがあるらしい。筋書きを覚えたまま、別の物語の中で目を覚ます者のことだそうだ。

……あら。まるで、わたくしのことみたい。


リボンに、指先でひとつ触れる。

今日のリボンも、空色。


***


昼の鐘とほとんど同時に、ご一行は帰着した。

中庭の回廊は、たちまち人垣になった。中心にいるのは、あの男。矢継ぎ早の問いに足も止めず、「調査中だ」とだけ返している。脚本どおりの、硬い声。

囲みのいちばん外を、大剣が通る。赤毛の剣士は質問攻めが性に合わないらしい。それでも一度だけ捕まって、短く答えた。


「……見た。あの魔女は、村を救う側に立ってた」


それだけ言って歩き出し、通りすがりにわたくしに気づくと、悪気のかけらもない顔でこう言うのだ。


「あんたの婚約者どのは無事だぞ」

「……それは、ようございましたこと」


扇を少し傾けて、それだけ返す。赤毛。名前を、覚える必要のない距離。その距離も、脚本のうち。

やがて人垣が、わたくしの前だけ割れる。婚約者の席は、こういうときにだけ空くのだ。膝を折り、完璧な礼をひとつ。


「お帰りなさいませ、殿下」

「……ああ」


返ってきたのは、二文字。零度。政略の婚約とは、そういう温度のもの。ここまで、なにもかも脚本のまま。……ちなみに、本物の「おかえりなさい」の宛先は、この人垣にはいない。

後ろでは、あの学者だけが口をきかない。気だるげな目が騒ぎをひと渡り眺め、呆れたようなため息がひとつ。視線はついでのようにわたくしの上を通って、なにごともなく外れていく。それも、いつもの無関心。


人垣が、緩みはじめた頃だった。

回廊の遠い端に、白い祭服がひとつ、現れた。遠目にも、歩みが遅い。

真っ先に気づいたのは、赤毛だった。また誰かに捕まっていたのを振り切って、大股にあの子のほうへ。無遠慮な手が、陽だまり色の頭に乗って、くしゃりと動く。

声は、ここまで届かない。届かなくても、あれがなんの手つきかくらい、わかる。

——気がつけば、爪先が半歩、前へ出ていた。扇の骨が、指の中で小さく鳴る。

ここまで。

頁のとおりに、世界は回っている。炊き出しの一件が、その証拠。ならば、わたくしの役は、ここを動かない。

あの子を慰める役なら、脚本の中に、もういる。

わたくしの番は、じきに来る。脚本は、遅れた頁から素直に再開する。放課後、中庭の渡り廊下。台詞も、歩数も、決まっている。


***


その頁なら、そらで言える。

渡り廊下ですれ違いざま、わたくしが言う。「平民の分際で、目障りですわ」。あの子は一度だけ怯んで、それからまっすぐに言い返してくる。「い、いくらオフィーリア様でも、言っていいことと悪いことがあります!」。頬に朱、目に小さな火。周りが息を呑み、わたくしは髪を払って、三歩で通り過ぎる。

それが、今日の分の、正しい逢瀬。


放課後。渡り廊下の向こうから、白い祭服が歩いてくる。

俯きがちに、鞄の持ち手を両手で握って。歩幅が、いつもより狭い。

わたくしは扇を開く。役の顔を作る。すれ違いざま、脚本のとおりに。


「平民の分際で、目障りですわ」


声は、完璧に出た。高慢に、優雅に、氷の温度で。

あの子は——遅れた。一拍。立ち止まって、焦点がこちらに結ばれるまで、もう一拍。空色の目は、たしかにこちらを向いた。向いただけ、だった。それから、虚ろな小声がひとつ。


「……ごめん、なさい」


浅い会釈。それだけ。言い返しもせず、目も合わせず、あの子は通り過ぎていく。

頬に、朱は差さない。目に、火も灯らない。決まっていたはずの台詞は、ひとつも返ってこない。

毎朝あの子のために結んできた空色のリボンは、あの子の視界を、素通りした。


——壊したのは、私だ。


扇を、鳴らす。

音がひとつ、仮面を叩き直す。髪を払う。三歩。振り返らない。

……告発は、ない。あの囁きをあの子が口にしていれば、いまごろあの子には護衛がつき、聴取が重なり、学園は騎士だらけのはず。そのどれも、ない。つまり、言っていない。まだ、誰にも。

あの夜をひとりで抱えたまま、あの子はこの渡り廊下まで歩いてきたのだ。

いまのあの子の中を占めているのは、あの朝の死者たちと——夜のわたくし。昼のわたくしの台詞など、届きもしない。

……妬けること。


***


寮の自室。湯を使い、鏝の巻きを流し落とす。濡羽色の髪が、ただのまっすぐに戻る。空色のリボンは、抽斗ひきだしのいちばん浅いところへ。一日ぶんの衣装を脱げば、ここに残るのは私だけだ。

二重底の奥に、黒い書物がいる。

頁をひらく。黒い線は、今夜は一本も増えない。……増えない夜も、あるのだ。

今日の決算をする。炊き出しは、頁のとおりに打ち切られた。あの男の零度も、赤毛の距離も、あの学者の無関心も、はじめの頁のまま。脚本は健在。私の読みも、狂っていない。

——あの子だけが、筋書きにいない。

想定の台詞は、返ってこなかった。目も、合わなかった。あの子はまだ誰にも言っていない——たぶん。いつまで、黙っていられるのだろう。黙ったまま、あの子の中で、なにが折れてしまうのだろう。それだけは、どの頁にも書かれていない。


リボンの端をひと撫でして、明かりを消す。

明日も、あの子はあの渡り廊下を通る。台詞が返っても、返らなくても。

——明日も、三歩ぶん。

それだけで、今夜は眠れる。


***


翌朝。空色を結び直して、廊下へ出る。

わたくしが歩くと、廊下はひとりでに割れる。挨拶の声は上擦り、目礼は深すぎ、道の真ん中がいつも空く。結構。悪名は、履き心地のいい靴ですわ。

その割れた道の先、遠くに、白い祭服が見えた。

生きて、歩いている。それだけで、胸の奥でなにかが跳ねるのだから、現金なものですわね。

隣には、赤毛。今朝も懲りずに、大ぶりな身振りでなにか話しかけている。声までは、届かない。

それでも、白い祭服は俯きがちのまま。歩幅も、狭いまま。頷きは浅く、すぐに途切れる。昨日の、あの無遠慮な手でも、あの子の朝は戻らなかったらしい。

……戻らないのだと、わかった瞬間。胸の奥で、暗いものが、そっとほころんだ。

まあ。わたくしとしたことが。慰めが効かなくて、嬉しいなんて。……醜いこと。

誰に慰められても、戻らない朝。あの子の「いい朝」を壊したのは、夜のわたくし。

なら、あの子の分まで、この国の朝を、ひとつずつ数えて差し上げましょう。

扇の内で、誰にともなく。


「——ええ。いい朝ですわ」


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